ありふれたことから
人や世界を変えようなんて言ったって中々上手く行くものではない。却って余計な軋轢を生むことも多い。
貧困や各種ヴァイオレンス、差別などの深刻な問題を少しでも深刻にならないようにする努力は尊い。
ただ、深刻な問題は、運よく直面しないで済む人も多く、そうしたセーフの人々が、深刻な問題に取り組もうとすると、ウソ偽りなく誠実に取り組んでいたとしても、逆に非難の対象になったりもする。
折角想像力という能力が備わっているのにもったいないことだ。
原則、知らん世界のことに口を出すな、に私は賛成なのだけれど、よく知らないというだけで語ることすら許さない、というのは行き過ぎと思う。
何をもって深刻な問題とするか?という問題もある。
日々の生活の何気ない出来事に、深刻な問題の芽を見つける場合だってある。
多くの人が深刻な問題に直面せずに済んでいるのだって、そうした芽を摘むような地道な気配りがあってもたらされていることなのかもしれない。
実感として、知的能力に優れ、経済的にも恵まれ、人間性にも特段おかしなところもないって場合でも、深刻な問題に遭遇する、いや、引き起こしさえする可能性が全くないとはいえないと思っている。
めぐり合わせかみ合わせ。
私たちは本当に多様な他者との関係の中で生きている。
同時代を生きる人同士ばかりか、遠い過去の人々が残した遺産にも影響を受ける。
概ね、冒頭述べた通り、起きることは起きるんであって、おっきなことは考えない方がいいのかもしれない。
でもやっぱり、おっきかろうがちっちゃかろうが、気になるものは気になる。
私にとっては、日常ふと遭遇する不要な侮蔑や差別というのは、ヴァイオレンスな行動と繋がって見える。それはテロや戦争にすら。
大げさ?
日々ふと誰かを侮ってしまう/侮られる(気がする)ことなんていちいち気にする方がちっちゃい?
そうかもしれない。
けれども、決してなくならないからといって、因果関係が確認されていないからといって、ただ眺めているだけ、なんてことはできない。
出しゃばり過ぎなきゃいいんよね。
ありふれたことが大事だというのなら、ありふれたことに日々遭遇する人々の手腕に賭けるべき。それが結局深刻な問題を引き起こしているように見えても。
現有リソースを活かす。
無いものねだらない。
つまらなそうなことがじつはつまらなくもない結果を及ぼす。
フルピリオド(ストップ)を置かない気持ち。
打ちのめされても恨まないで立ち上がる。
恨んだって恨まなくたって死ぬときは死ぬんだ。恨むなんて無駄無駄。
この世に秘密の計算式とか秘術なんてないよ。
少なくとも私たち一人一人の外にはどこを探してもない。
秘術炸裂させたいなら、自分の中を探ることだよね。
別にそこにだって幸せのエッセンスみたいなものはないんだけれど。