豊かだから?文化活動お盛んな程の知性があるから?
現代日本でも格差問題の一つの現れとして頻繁に言及される高学歴と親の(高)収入との関係。
私自身、入学間もなくの話題として大学の新聞でそれが取り上げられているのを読んで、はじめて「そういうもんかなー」と感じたぐらいなもんで、大学入るまでは自分の家庭が豊かだなんて露も思っていなかった。
とはいえ、(失敗した)中学受験の頃から塾行かせてもらって、高校も私立、さらに予備校もお金出してもらっていたわけだから、これを恵まれていないなんて言っちゃあ罰が当たるってもんだ。
他方お金にとどまらない豊かさってのも感じないわけではなくて、大学に入って、同学年の人たちの中でも受験勉強以外の知識の深さというか「いつのまにそんなこと学んでたの???嗜む暇があったの??」というような人たちに出会うこともちょくちょくあって、振り返るにそもそもの”お育ち”の違いってのもあるんだろなぁとも思う。
知識というのは様々なボーダーを克服していくポテンシャルとも理解できるわけで、現代というのはそういう前向きな意味での知識については盛んに「よりよいものを」と創意工夫がなされている。
知識にポテンシャルがないとは思わないけれども、それでもやっぱりとある時点での貯えの違いみたいなものも無視はできないだろう。
強み弱みの分析というのも現代ではほぼ定石のように行われるわけだけれども、あたかも点数の如く加点・減点というか”カウント”するような捉え方には違和感しかない。
そういう捉え方に何が足りてないといって、リアリティというのか、現実感と言えばいいのか、、、。足りてないというだけに幽体離脱感が満載というか、、、名前あって中身なしみたいな虚無的・抜け殻的な感じ。
現代の科学風の世界やモノゴトの捉え方を指して、私は” #否定哲学 的”と思うのだけれど、それは何故か?というと、突き詰めていくと、、、というか、何につけ真であると言明できるためには突き詰め続けなければ仕方がなくて、科学者でもなんでもない私なんかの言うことなんていつでもどこででも完全に否定され得るわけで。。。それは科学者だって何も違わないからね。
前向き前向き、とか、何か希望を持てるようにとか頑張らせようとする人間の方がどちらかというとそういう現代の科学風のモノゴトの捉え方がどれだけ正確にできるか?を競ったり競わせているように見えるというのも、私にはとんでもない矛盾に思える。
なぜって?
否定の哲学が真っ先に否定するものは人間だからね。
名前を付けるということからして相当きている。
というぐらいなもんで、別に否定の哲学だからといって否定的にとらえられなければならないわけではない。
要は使い方の問題。
但し、単に名前を付けるってことからして、とあるものの存在の仕方の相当な部分が割愛され得るって点は肝に銘じないといけないだろう。
もしも名前優先でない科学の仕方というものがあるなら、それは小学校の一年生からでも教え始められるべき。
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話を元に戻すと、豊かさと知的発展可能性との関連性にも関わるんだけれど、希望を持ちたいならそりゃ否定哲学に賭けてちゃ無理だろうし、そもそもそう振舞っていることにさえ気付かないんだから、知性なんつったってそんなにそいつに多くを期待しててもアカンやろと。
希望を抱くなんちゅうのは実はものすごく大変なことで、多くの人間はできていない。それなのに、いろんな経緯でわりと安全に感じることができている方の人間が、より恵まれてない方の人間に希望を持てと言い募るのはどう考えてもフェアじゃない(親子関係においても似たようなことが言えると思っている)。
否定の哲学はあくまでも個々人が自分自身に向けるべきものと私は信じているのだけれど、それもこれも本当の意味でそれぞれの人が希望を持ってというか信じて生きて行けるような強さを身に付けるため。
「お前のそれは所詮夢物語だ」と他人に言うのは超カンタンでしょ?
だから(どーせ否定されるんだから)夢なんてものは語らない(事実しか語っていないと主張する)というのも安易というか、、、まあ簡単。
そんな人間がわんさか生きてて世の中明るくなるわけがない。
夢物語は所詮夢かもしれない。それでもそれを自分の希望だと信じられる時、そりゃ多分その人だけの希望を語っているんではない。
自他のカベを超えるというか、名前を付けて呼び合わなきゃ不便な世の中に生きている私たちが、お互いの存在の仕方(=知識)を尊重し合えるようになるためなら、否定の哲学だっていくらでも使い道はある。
否定哲学の悪魔とこんなに苦労して闘ってきましたー
なんてのも。。。
よしといた方がいい。んだけれどもね。。。
まあ何千年通して今があるわけなので。。。
容易なことではないとは思う。
ぐぐ。。。
希望持ててないなぁ。。。