方程式はメタファー
メタファー(比喩)はすばらしい。
メタファーは私たちの理解を促進してくれる。
笑いも起こしてくれる。
すごいよね。
君はひまわりのようだね
「えっ!?そんな顔丸くてデカイ?ワタシ。」
君の笑顔はひまわりのようだ
だと誤解の可能性は低くなるかな??
比喩の方法にも色々あるらしいけれど、基本は置き換え。
人間が花なわけないけど、「ステキ」って言わないで、「ひまわり」と言う。
話者の気持ちとか受け手の反応とか、いろいろと想像が膨らむ。
想像が膨らむわけなので、厳密さ、という点ではあえてぼかされる感じ。
他方メタファーとは通常言われないけれど、厳密さを追求する置き換えもある。
論理の世界のお話。(数学も含む)
置き換え可能になるためには置き換わるものと換えられるものとがそれぞれある程度安定した定義(意味、性質、形質など)を持っていなければならない。アイデンティティ―と言ってもいい。
論理の世界では、ともかくこの定義の厳密性を究極まで追い求める。
曖昧性があってはならない。1があるときは2や3ではだめだ。
そうやってとあるものが厳密に定義できるだけでも非常に整理がつきやすいけど、さらにそれらの関係性を理解するのにも役立つ。
私たちが一般に「科学的」としているものは、この種の置き換えで成り立っている。
本来は厳密。だからこそプロのサイエンティストは素人の科学論議に厳しい或は嫌いさえする。だっていちいち厳密性なんて確認しないもの。普通。
そんな強面の「科学」だけど整理はしやすい。
目に見えるものをいろんな名前で呼べるし、因果関係だってかなり安定的に予測できる。きちんとした実験とか観測とかしなくても。
整理しやすいだけでなくて、私たちが目に見えるものを、科学的手法からするとそれほど厳密でなくとも、なるだけ正確に記述してみよう、とすれば、一定の方向性が与えられて話しやすくなる。
でも、「目に見えるものをなるだけ正確に」という方向性が唯一絶対の規範になるというのは問題。
「目に見えるものをなるだけ正確に」で得られるものは、でっかくて漠然とはしているけれど”メタファーのネタ”だと考えた方がいい。
細かく見てみると、理科や算数などに限らず、社会でも英語とかでも、何かを何かで置き換えてみる、または、何かが何かに置き換わってしまうということを確認すると、時に劇的に見える世界が変わる。
ともかく語彙が増えるし、方程式たてて数値化されたもの同士の関係を確認できたりもする。
「厳密性の追究なんて・・・」と敬遠気味のご仁も、たくさんの人に笑顔を与えるメタファー開拓のため!と思えば、観察意欲も増すのではないだろうか?
観察して、試しに表現してみると体験できること。
「あやー。人間って気付いてないけれども、ものすごい忠実に自然現象とか感じ取って、漠然とだけど理解してるもんやなー。」って感心すると思ふ。