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まだまだアツ(アオ?)い人たちへ
集団の中で声を上げないことは集団の惰性に加担することに同じ
Twitterで見かけた。気になる言葉だ。
間違っちゃいないとは思うんだけど。
なんか耳触りが悪い。
危機感の欠片もないノーブル・リベラルの響き。ノー天気。オムツが取れてない感。
他方、似たような言葉で少し心を動かされたのがある。
かの有名なキング牧師の「(ラディカルに差別なんてしない大量の)ふつうの白人たちこそがデカいカベ」とか、黒人女流作家トニ・モリソンさんの「白い人たちは現行の社会に対して何ができるかを考えるべきだ(黙って見てないで)」。さらにはとある作家さんの「無害を求めるやわい心」「どうにか目立たないままでいたいという心」などなど。
明らかにアメリカ合衆国におけるレイシズムの問題について、というよりスペシフィックかつ深刻なバックグランドがあっての発言、というところが冒頭のふんわりジェネラルなものとは異なる。
そのせいか、後者の方が心に訴えかけてくるモノがあるんだけれども、それでも趣旨は両者同じだ。特に「集団の惰性」ってそんなに悪者扱いしたところで、ぶち壊せるものなのか?という疑問が消えない。そこを責めたい気持ちは分かるけれども、その戦略は実を結ばないどころか、却って望ましい未来に繋がりにくくさせてしまうのでは?なぜなら、「集団の惰性」こそが私たち人間の実力の表れそのものでしかないと私は思うから。「集団の惰性」以外の表れを願うのはほとんど非現実的だということ。ましてや「打ち破るべきだ!」と強制したところで新たな力による抑圧そして失望に終わるだけだろう。「集団の惰性」とは違う!と言われるかもしれないけれど、こういうのがいいって場合もある。
「私は気むずかしくて喧嘩好きな人を疫病患者のように避ける。また、利害にとらわれず興奮もしないで論ずることができない問題には、義務として強いられない限り 立ち入らない。」(モンテーニュ)
— モンテーニュbot (@MontaigneBot) June 11, 2020
しかしヒントはあると思う。上に挙げた著名な方々の言葉の中に。
闘って何とかするなんてことはできないんだよ。
それよりも、「集団の惰性」から自分(や気心の知れた仲間たち)だけを切り離すことができるかのような身勝手な空想は即刻止めてしまわなければならない。
さしたる思慮もなく「何となく」で無難を求めて何が悪い?
全く悪くない。
いい悪いの問題ではなく、「集団の惰性」ってのは、頑張って克服するもんじゃないんだということ。そもそも何かを克服するためになんて人間そんなに頑張んないんだし。
ただ。
現実として現れてくる結果には責任を感じるべきだ。
痛く痛く感じるべきだ。
いつまでたっても全くダメだな。またまた同じことの繰り返しだ。
こんなにダメダメなのに何で生きていられるんだ?何のために生きていると言えるのだ???
これだけは是非ともハッキリさせといてやる:
この世にこうして存在している根拠も、生きさせてもらっている以上求めるべきように思われる目的や意味や価値も、何もかもてめぇで勝手にゃ決められねぇんだよ。勝手に「こうゆうこと?」とか結論付けて安心できたつもりになってんじゃねぇ。生きてから死んでいくまでみんなで考える。それしかない。「みんなで」だ。もう大昔に死んでしまった人々から、これから生まれてくる人間みんなだ。
こう考えれば多少は「やることいっぱいあるなぁ」ぐらいには思えるんじゃないか?「何やったってムダだ」ではなくてね。
もう十分沢山人が集まってごちゃごちゃやっちまってるところにかかずらわってる暇なんてないんじゃないの?あんたのケアを待ってる人間なら腐るほどいるぜ。世界中に。
何度も何度もダメさを思い知らされようが、いつまでもうじうじしてる場合ではなかろう。再び「生き恥さらし」になるより外なくても、そういう他者に巡り合い、彼女/彼らと塗(まみ)れに行くぐらいの価値はある。
そう言って元気出すぐらいの勝手は許されるんじゃないか?