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読み書きは手段であって…

○○は手段であって目的ではない

よく聞くフレーズだが。

そもそもの話がなんでそんな決まり文句が出来上がっているのかと考えると、もうそれこそ手段自体が目的化してしまうってのがあたかもデフォルトってぐらい頻繁に起きるからではないだろうか?

やっぱり目的なんて後付けでしかないってことは実証されているのだ。と言ってもいいだろう。

小1の息子を見ていても、自分のドクター生活を振り返って見ても、読み書きというのは本当に地道な作業の積み重ねだと思う。

加えて、読み書き自体はやっぱり手段であって、それでもって達成したい実現したい何かがあるんだろうとも思うのだけれど、地道な作業を繰り返す上でモチベーションともなり得るそれら目的って、必ず具体的でなければならないのだろうか?つまり、目指しているものってきっとあるんだろうけれど、案外ぼやっとしてもいるんではないか?であるならば、地道に作業を繰り返している最中に感じられる細々とした感覚、上手く書けたとか読んでて感動したとかいうものだって、超短期的と言えるのかもしれないけれど、目的となり得ているんじゃないだろうか。

何が言いたいのかというと、何か目的みたいなものがなければやる気が出ないやり通せないという考え方自体が大切なものを見失わせているのではないか?ということ。

大切なものというのは、それに浸り込む感じ。「のめり込む」でもいいんだけれど、もうちょっと静かな気持ちでちょっとした冷静さ、一歩引いた感覚も忘れない感じ。

生き残ることは、個人にせよ種にせよ目的たり得ない。生き残っているという事実を確認するのみ。

ただ、私たちはそれほど特別な幸運に恵まれなくとも結構な時間生きていられる(生きていられるだけでも十分幸運なんだけどね。100歳まで生きられる人が何万人とか、、、と言われるように、その幸運は相対的にはそれほど特殊な幸運であるとは思えなくなってきている)。

人生が現代でいうところの平均的な長さぐらい長いと、「生きるために働く」とか「生きるために勉強する」とか「生きるために呼吸する」とか言ったってそんなに違和感はないだろう。

しかし、私たちは果たして生きるために呼吸しているのだろうか?

勿論呼吸止めてしまえば生きられない。

けれども生きるために呼吸しているのであれば、それなりに呼吸方法の工夫をしたり、呼吸について学んだりしているという人の方がそうでない人よりも多い必要はないか?千人いて10人ぐらいしかやってないことを指して、生きるために、、、なんて言えるのだろうか?

ご飯を食べることも似たところがあると思うけど、こうした日々の単純繰り返し。しかも生きている以上その間はほぼずっと続ける。断続的にではあっても。完全停止することはないというもの。

そういうものってそれ自体が目的となり得ると言っちゃってもよかないか?

めっちゃ呼吸について詰めに詰めたら、結構長生きできちゃったりするかもしれない。

食事はそうだよね。気を付ければきっと健康面でよいことがありそう。

で。

読み書きは?

呼吸やご飯ほどではないにせよ、生きてりゃやり続けない?違いはといえばいわゆるインターバル的なもの?

呼吸もお食事もそうなんだけどね。現にそこにあるもの、生きていれば遭遇しちゃうようなもの。そういうものにじんわりと感じ入る感覚。

私はそういうものが世界を違ったものにするんじゃないかと思っている。

世界平和は世界平和を語る人だけが実現するものではないだろう。

平和のために必要な行動だって平和活動家だけが決めてしまえるわけもない。

何でもかんでも定義して名前つけて価値付けて取引きすることによって流動させる。

しか能がないってのも考えものだよね。

「価値を生む」なんてフレーズもあってわたしゃあんまり好きではないんだけれども、呼吸やお食事や読み書きのように日常的に遭遇するものたちにふと浸り込む。そうすることによって湧き上がってくる泉というものは、現代の世の中に流通しているところの価値なんてものが到底及びもつかない意味・意義があるはず。

鬼のように読んでも書いてもいいけれど、目指すところがあるならそれは突拍子もなく壮大なものにしておく。あるいは勝手にそうなっちゃう。読み書きの可能性のでかさってのはそういうところにあるんではないかな?


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