当事者意識が欠落していると感じられる原因
言っていることはご立派なんだけどどうも自身の実績であるとか実力とかをひけらかすような匂いがプンプンすると、ものすごく不誠実だ!と感じる。
その訳とは???
疑うことが思いも及ばない規範の体系の全体に対する、確信とすら呼べない遂行的信仰が必要
ちょっと難しいけど、遂行的信仰だな。ポイントは。
現状を疑い常に批判的に見ましょう、というのはよく言われるけれど、単に物事を斜めから眺めるというような甘いものではない、ということなのだろう。
”遂行的”というのは、当然、自身の具体的な行いが伴うわけで、従って、その行いの影響を受ける他者との関係性も常に念頭に置かれることになる。
考え続けること自体も相当苦しみは伴うけれど、”遂行的”であるかどうか?このカベは考えられている以上に隔絶的と理解すべし。
自らの存立根拠を忘却
しばしば、西洋由来の科学的客観的手法を盾に「自分のやっていることは立派だし、間違っているわけがない(主にもたらされる便益を根拠に)」と主張している輩に不誠実さを感じるのは、これが原因なんだろう。言っていることの中に自分自身が巻き込まれていない。外から分析者然として語っている感じ。
「で?おまいさん?何のためにその手法を活用しているってんだい??」
答え➡自己実現その他の欲求を満たす。名誉。地位確保。自身の生き残りを図る。自分自身は正しいことをしていると信じたい。どんなにご立派なことをしようが、過ちを犯す可能性がある、なんてことは考えたくもない。だって考えたってどうせ避けられないんだから。。。
「ともかく生きなければならない」
は、他人に言うべき言葉(祈願)であって、自分自身に向けて語るものではない。
自らに対し問うべきは、
「いかなるときもよくあらんとすること」。
自分で自分に「多少醜くても生き残らな意味無いで。」ってのは、往々にして守るべき家族がぁーとかなんとかで正当化されがちだけども、、、。まあ明るい未来は想像しにくいよね。。。一人一人が「オレ・ワタシが生き残るべきなのよ!」って主張し合っている絵図って。。。まあまさにもうそうなっているともいえるけど、、、おぞましいよね。。。
泥臭い人生とか醜い生き方とか、特に前者は「わりとええもん」みたいに評価されるけど、まあ条件付きでしょうね。
自分自身の信念として、「今はそれでも耐えて生き抜くべき」と信じているなら、やがて花も咲くことだろう。
適当に生きておいて、「いや。とりあえず生きとかな。」ってのは。。。どうしても誠実な態度とは感じられない。
「適当さ」とはより具体的には自己・他己振り返りの甘さ。
もっと詰めるなら、自分自身の中に、絶対に精神力やら注意力やらではどうにもならないぐらいの欠点・弱さがあると知り、どうにもならないんだからずぅぅーーーっと監視し続けちゃる!!!という意志。これがあるかないか?
自分自身の内に籠るのではなく、常に「自分が他者に対してどのように振る舞うことができたか?」でもって、自己の弱さや欠点をチェックする。
簡単に言うなら、他者と接するとき、事実かどうか?はさておき、自分自身に逃れられない弱さ・欠点があり、これと格闘しているのと同等或はそれ以上の葛藤が他者にもあるものと想定できるかどうか?
「ああ。そんなん誰でもやってるで。」ってのは、原則自分自身に向けて投げかけるものであって、他者をそのような前提で見て接してはいけない。そのようにすることは、即ち、自分自身の弱さや欠点への不断の監視を怠っているということ。「そんなどうにもならんこと(弱点や欠点)に拘っても大した違いあらへんで~」。
誰もがヒロイン・ヒーローたり得るというのなら、おそらくそれは、そのように痛い思いをしながらも自身も他者もなるべく等しく愛することができるような人格形成のプロセス。ここに君臨する者なのだろうと思う。