後退戦を戦うメタファー
よく内田樹さんが使うメタファーですね。
飛躍的な経済成長が見込めない昨今、現状維持でも御の字、と冷静に受け止められればいいのでしょうが、やはり人間先立つものがないというのは中々覚束ないわけで。。。現状維持、だとまだ弱い。成長の夢に引きずられるという感じ。ということなのだと思うのですが、後退戦を戦う。
戦いのメタファーそのものが夢に引きずられる傾向を脱するのを困難にしてしまうのではないか?
そもそも戦いなのか?
私は戦いっていうのは差し迫るものが強い割りに、差し迫っている差し迫っていると皆が感じるほどには種々工夫なんてしていないんじゃないか?と感じるのです。
つまり、戦ってなんかいないと。
みんなで分け合うためには、相当大量に余分を作り出さないといけないようです。現状。
であれば、ひとまずその方法はすぐには捨てられない、と肚をくくらざるをえない。いえ、捨てるとなると、余計に多くの人間を不安に陥れるのかな?と。限られたパイをどう取り合うか?自分はおこぼれにあずかれるのか??
現実にも、相当大量に作り続けられるような工夫、技術開発は止まっていないし、無理に止める必要もないだろうと。
分配の技術は???これは科学技術と人の考え方とを分離するのが難しいので、もしも考えるのだとしたら、人間の考え方の方を重点的に見てみるべきだと思うのだけれど、相当時間はかかると思う。
それよりも、現実に物を作り続ける仕組みに注目してみる。
AIやロボットが最近騒がしいように、こと、物を作ることに関しては、オートメーションが最高に効率的らしい。生産性という観点からは。
最近は本当にいろんな作業が自動化可能になってきたわけなのですが、ということは、結構最近までは、人間が疑似自動化を担わされてきたのだろうと。
そういうイメージで人間を捉えるようになっていて、そういう人間がロボットやAIにすり替わっていく。
逆に見てみると、今私たちがイメージしているロボットってのが、私たち自身のイメージ。
勿論人間は物を作っているだけじゃないんだけれども、物を作る機能以外のものも含め、ロボットっぽいイメージが強いのだろうと。今は。
では、もしもそれをモノホンのロボット、機械、人間じゃないものが肩代わりしてくれるとするなら、自動物作り機械というイメージから、人間を解放してあげられやすくなった、と考えられないか?
物作りを続けるにしたって、自動じゃないんだよ、私たち、みたいなね。
たくさん作り続けるのはどうやら限界があるようだ。それは生産性を上げることが難しいのではなくて、エネルギーの問題。生産性を上げるために投入できる便利なエネルギーは、無限ではないらしい、というところ。例えば石油。技術的にはなんぼでも掘れるらしいんだけれども、そろそろ掘るために使われるエネルギーと、掘った石油から引き出せるエネルギーとの差がなくなってきているという。
つまり、ロボットにせよ私たち人間自身にせよ、自動化のイメージだけでは乗り切れなさそうなのだ。いくら生産性を上げ続けられるとしても。
現状でも相当余分に物を作り出せる。一人一人が生存を維持していくのに最低限必要なものとの比較で。
でも、余分なもの、不足しているものを、瞬時に融通しあうというのは難しい。疑似自動物作りマシンとイメージはできても、自動過不足認識マシン及び認識した過不足に基づいた自動分配マシンにはなれていない。。。
融通しあうためには、ゲーム理論で分析するだけでは不十分で、究極的には、私たち一人一人の「なんで(どうやって?何を生命活動源として?どんなモチベーションや価値観でもって?)生きるか?」に対する答えに大きく左右される。
戦いっちゃあ戦いかもしれない。
難しいもの。。。「なんで生きるか?」って問うのも、それにどう答えるか?も。
でも後退戦のメタファーが暗示しているように、道のりは長い。
じわじわと後退、、、し続けるイメージってのはちょっとしんどい。。
私たち人間の、自動物作りマシンという色が濃い現状イメージを、徐々に変えていく、と考えられないか?
物は作り続ける。いろんなもの。食べ物に生活に必要なものに、心豊かにしてくれるものに、、、。でも自動じゃない。自動じゃないってことは効率性の観点からは無駄が出る。効率性の観点からは無駄とされるものが、人間の観点からは何故無駄ではないといえるか??
そんな現実的な問いからなら、始められるのではないか?
どう分け合えるか?はどうしても外せなくなると思うんだけれども。。
そのあたりまた詳しく見てみるかな。。。