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とっても尊いもの

それが傷つけられたと感じること

生きておればあるだろう(そんなにないかもしれんけど)

プライド、人格、尊厳、家族、、、etc.

(※家族は自分以外の人間が巻き込まれるのでやや違うかもしれないけれど、まあ似ている)

これらが傷ついたと感じるようなケースは往々にして突然やってくる。

あまりの意外さにびっくり仰天後さらに気持ちが動転していることを指して”傷ついた”と呼んでいるのかもしれない、というぐらい。

物理的な接触や暴力を伴っていれば、体に感触とか傷なんかも残るだろうし話が違ってくるのだけれど

そうしたものがない場合、

記憶している感覚は相当衝撃的であったとして

十分な準備ができてない以上、まあびっくりはするよね

ぐらいのお話で済ませた方がいいんじゃないか?なんて考える。

動揺した状態で思考を走らせても

あまりいいことないし。

そんなこと言ってる私にも、人格関係でむっちゃびっくりさせられて動転してしまったことはある。その事例としてもっとも最近のものは

「ゲゲゲっ!!!レッテル貼りってこういう風に機能するんや!現実に!!!」

というのが自分の身に降りかかってきたと感じた時のこと。

あれは衝撃的やった。

こぇーってマジ思った。

まるでサイコ・ホラーやとも。

人格というか、これが本当の私と思っているものを、他の人も本当の私だと思ってくれると期待するなんて甘い幻想だとは思っていた。

けれど

「あれ?この人本当はどうなん??」なんて疑うことが全く一切何もないってパターン。。。

あるんや!!!

ってのはショッキングな発見であった。

”全く一切何もない”というのは、つまり、その人の中には何がしか私についてのイメージというか、理解したことがあって、それ一択ということ。

人間ていろいろ性格みたいなもんはあるけど、一言で片付けられるもんでもない。

時間とともに変化もするだろうし、環境変わればまた違って見えたりもする。

なぁんて可能性については、今も昔もそして将来にわたっても考えないし、考えないことがあまり正しいことではないんじゃないか?という疑いもない。

いやそもそも

人を固定観念で見てしまっているという自覚もない。

要するに

その人の前にいる限り、

私はその人の持っている私なるもののイメージやら、その人が私について理解した(と信じて疑わない)ような人物なのであって、私の方でいかに色々と変化して見せたところで、既に創出された人物像には何の違いももたらさない

ということ。

これって一種の人格否定よね。

だって私の方で何やったって何も意味はないわけやし

既にイメージが固まって動かないなら、私が存在していようがいまいがその人には何も関係ないわけやから。。。

まあ一対一やからまだましやけど

これ

一(私)対多数でやられたら

と思うと

まじ冷や汗出る。

全くあり得ん話ではないから。


で。ここからが本題なんだけど(前置き長い。。。)

そういう衝撃的なマイナスのメモリーね

あたかもなかったことのようにいなせるのか?いなしちゃった方がいいのか?

ということ。

また別の論点なんだけど

そういう衝撃の原因の片棒を自分が担いでしまっているという認識(なぜか自分が悪いと思ってしまうこと)って

ホンマにあるんかな??

ということ。


私。前者は絶対覚えときたい派。

自分のためと他者のため。両方。

自分のためはいわゆる”心の準備”みたいなもん?

びっくり仰天させられる可能性がちょっとは減るかなー?と。

他者のためってのは、まあ悪い意味でびっくり仰天させない方がいいとか、自分が原因でなくとも、びっくり仰天させられている人の状態とか、なるべく分かってあげられるようにした方がいいかな?と。


後者の方はややこしいね。

びっくり仰天させられたはずみに「ゴメンナサイ」って言っちゃうことは、そんな目に遭ったことない人でも想像はできたりするんではないだろうか?

ってことは、多分心理学的に色々説明はされているはず(反射的な危険回避行動?とかなんとか。。。他多分色々あると思う)。

ただ

衝撃に引きずられて

ということもあるのかもしれんけど

引き続き「自分が悪い」とか思い続けるか???

ということ。

いえね

一瞬の出来事で反射的に「スミマセン」なら分かるんだけど

あとで事件を反芻しながら

ということは

理屈で様々な状況、人間関係とかなんとかを分析しつつ

そういう結論に至るのか???が疑問なの。

考えれば考えるほど

自分由来の要因(特性、属性、慣習やクセ等々)は様々思いつくだろうけど

悪かないでしょ。。

びっくり仰天させなければならないという必然性がない以上、させるようなやり方でアプローチしてくる方が絶対的に悪い。

心臓弱かったら死んじゃうよ。

最初の論点(衝撃は覚えておきたい)とも関連するんだけれど

受けるいわれのない奇襲を受けるという理不尽

起こるよ。

どんな理屈付けても。

よしんば悪い方の攻撃者が制裁を受けたとしても。

そもそも理不尽だし。

すっかり忘れようとしたり

納得しやすい理屈を付けてケリを付けようとしたり

そういう戦略は有効ではない。

覚えておいた方がいいと思うのは

理不尽なことは起こる

ということ。

善悪なんて関係なく。

理不尽なんだから。


尊いものを守りたいなら

強くある必要はある。

逃げてもダメ。

へんてこりんな言い訳で躱したつもりになっていてもダメ。


無闇に傷つけたりしてはいけないってものはあるのだと思う。

ただ

それを守ると言うとき、

鎧のようなものでプロテクトする感じのイメージは棄てた方がいい。

「それは無闇に傷つけちゃあいけないものよ」というものは

理論上は、全員が”各々の頭を使った上で”そう思うべきもの。

理論上の全員が無理だとしても、

加害側被害側は各々そういう認識になる必要がある。

イメージとしては

そのむっちゃ大事なものを生け贄に差し出す感じ。

え?

守っとらんやん!?

と思うでしょ。

でも生け贄なので

差し出す相手は聖なるもの。むちゃくちゃ尊いものを差し出すに相応しいもの。

(想定される)敵に、、、ではない。


なんでこんなへんてこりんなこと言うのかというと、

とっても尊いものって

言葉とかでは言い表しきれないんだと思うの。

何をおいても大事。

PricelessとかInvaluableみたいなの。

なので

何だかんだ御託を並べちゃったら尊さが半減しちゃう気がするから。

とっても尊いものを守るために強くあるということは

びっくり仰天して動揺する可能性をできるだけ低めるという戦略でいった方がいいと私は思っている。

とはいえ人間だもの

動揺させられることなんていくらでもある。

そんな時にこそ

とっても尊いものに身を捧げるつもりで

みだりに言論をぶつなどざわつかせることなく時を待つ。

やっぱ動揺があると不必要に走っちゃうものだからさ

私たちの考えることって。

一々「それ思い込みであって何ら検証されてないんじゃないですか?」なんてチェックははたらかない。

不幸にも理不尽に遭遇してしまったら

それも神の思し召しと

一旦事実を受け入れよう。

とっても尊いものがあって

それを無闇に傷つけるなんてことは悪いこと。

それは動かしがたい真理なんだ。

そうした真理に忠実であるということは

信じ切ることであり

また

モノゴトを是々非々で判断することを過たないということ。

起こっちゃったんだからしゃーねーじゃん

というのは

別に投げやりとか諦めとかではない。

静かなる怒りにも似ている。

理不尽に怒りつつも

何が善で何が悪かは間違えない、ごっちゃにしない意思。

理想でしかないのかもしれないけれど

目指すべき強さってそういうもんなんではないかと私は思っている。

自分以外の他者にも

きっと代替品なんてあり得ないぐらい尊いものがある

だからこそ

お互い

無闇に傷つけたりしないというような

心からの尊重の気持ちがシェアできる

なんて夢に期待しながら。

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