どこまで切り売るか?
身体は切り売れない。生きていると。基本的には。。。
労働力は売れる。ことになっている。
肉体労働は身体を生きている間でも切り売れるようにしたもの?
では事務仕事なども含む頭脳労働は?
頭脳を働かせるというのは、身体も働いていないとほとんど無理なので、肉体労働というカタチでの身体切り売りと原理的には同じ?
頭脳を働かせると、知識などの価値付け可能なものが生み出せる。
また、頭脳を働かせよう、働かせ続けようとする意志や、頑張り、やる気。より細かい、細部への気配り、丁寧さ、疲れていても騙す、朝寝ていたいけど無理矢理叩き起こす、満員電車はつらいけどとりあえず乗る、、、等々、精神面の様々な働きをも動員させられているともいえる。
接客商売などでよく言われているのは、お客様への対応のため、お仕事用の自分を、本来の自分がどうかとはほぼ無関係に仮装せざるを得ないため、相当の労力を強いられているということ。スマイル0円。こういった例では、より高度な想像力をも動員させられているともいえ、そして各人が実際に感じる疲弊感も高くなる。
現行の資本主義経済は、こうして、肉体をぶつ切りにするのは無理であっても、私たちの内面のかなり深い部分までをも切り売りさせ、もって生じる交換可能な価値を市場を通じて流通させているともいえる。
よりコントロールの効いた社会、整然とした社会秩序形成。つまり政治・統治の視点からも、これらの身体切り売りはどんどんと個々人の内面にまで触手を伸ばしている、との説明が可能。人口統計、戸籍、健康保険、年金手帳、性別、職種、マイナンバーにと。。。整然とした社会で安全に過ごしたいとすると、国家権力に個人個人の情報を管理させることを認め、従って相当分の自由は差し出してしまっていることになる。
ベーシックインカムがいいなーと私が最近思うのは、知的創造活動の健全な発展のため。
これまでも、そしてこれからも、科学的アプローチで、私たちを取り囲む事象や人間の身体や精神の働きなどについて、より正確に突き止めようとする流れは変わらないだろうし、ドラスティックに変える必要もないと思う。
問題は、現在の社会経済システムでは、純粋な知識探求のみに専念できる人がほぼいない、ということ。知識探求の営みは実際ほぼ全人生を賭けて、、、というぐらいでも時間が足りないぐらいだし、しかも、探求しつつ何か金になることに繋がればいいけれど、無数にある知識分野の中でそのような幸運に恵まれる分野は稀で、よって、知識探求に加え、当面の生活を支えるための活動にも従事しなければならないのが普通。
そうなると、知識探求の意味や大切さを理解してはいても、それを実践できない。なぜなら、多少なりとも稼ぎ続けてやりくりできなければ、知識探求活動が社会的に認められないばかりか、活動そのものが途絶えざるを得なくなる。それが単なる悲劇として語られるだけならまだいいけれど、工夫して生き残った者、生き残れそうな者が、従事している知識探求活動そのものではなく、”生き残ったこと”や”生き残るためにとった手段”に一定の肯定的価値感を抱かないわけにはいかない。そうなると、知識探求に勤しむ人々の間で、”そもそも知識探求なんて贅沢しようと思うなら、生き残る術を身につけるべき。もしも社会に役立つ知識探求だというのなら、そのぐらいの苦労は厭わず、そして事実生き残れるはずだ”というような考えが蔓延り易い。そうなると、知識探求の真髄が失われてしまう。何故なら、知識の純粋な探求とは本来、人類社会に役立つかどうか?とは全く別次元のお話だから。”生き残る”方が大事じゃん?って言う人多いけど。。。”生き残り”なんて運命だからね。どんだけ工夫した結果に見えようが、そんなのは単なる偶然。だからこそ純粋な知識探求の方が大事なんです。そういうどうしようもない理不尽な運命どもといかに対峙すべきか?備えるためにも。役に立つ立たないというのは、知識探求活動に回すべき知力が、知識探求のためではなく、生きるための糧を稼ぐために投入されてしまうということ。知識の切り売り。
知識探求って、じゃあなんでやるの?人類の何かの役に立たないのにやるの?
やるんです。
究極のギャンブル。これは止めるわけにはいかない。人類として。
というか。。。勝手にやっちゃうんですよ。その筋の人って。
私の論点はですね。そういう人を貴重なものとして守り育てましょう。そういうこと。
でね。
分からないじゃないですか?本当にその筋の人かどうか?なんて。
だからベーシックインカムなんです。特定目的の基金とかではなくて。
本当にバカバカしいお話なのだけれど、『数学する身体』の著者周りに、居酒屋の下駄箱で、素数を取り合うという現象が起きているらしい。
数学というのは多くの人にとって(私にとっても)ミステリーだ。
私個人の話をすれば、単純に抽象的な数式の操作ができない。つまり簡単な計算もできないということ。
でも私たちの身の回りの様々なものが数学の概念を使った計算で実現されている。
「数学なんて役に立たない」とは言えない。(言う人も結構いるけど)
私たちの生活に直結するような科学技術だけでなく、物理学と数学とを組み合わせると、宇宙や自然は数式で全て記述可能な感じらしい。勿論まだ完璧にそうなった、というわけではないけれど、宇宙や自然があたかも数式に沿って振る舞っているように見えなくもないらしい。
神秘的だ!
数学について、まず数式の操作ではなく、自然や宇宙周りのお話、数学という学問の発展過程や哲学的な意味、私たち人間との関係などなどを面白くお話してもらえると、案外身近なものに感じられることもあるだろう。
でも。多分そんなお話をありがたいと感じるような人は、純粋に数学を極める部類の人間ではないことがほとんどだろう。
多分だから、なのだろう。居酒屋で素数素数とかいってキャッキャ言っても全く恥ずかしく感じないのって。。。
数式一つまともに扱えない私の数学に対する理解は、「数学はありとあらゆるものの中に宿っている」というもの。つまり、宇宙も自然も、人間の心も、(いつか)数式で記述できる、のではなく、既に数学を宿している、ということ。だから、ちょっとずつでも数式で記述できるようになるのは当たり前。
純粋に数学を極める人々というのは、この当たり前のことを極める。役に立つとか立たないとかは関係ない。
では居酒屋素数のような人々が出てくる必然性、社会的な意味とは?
数学はすべてのものに宿る。
人にも宿っている。分かる人も分からない人も関係ない。みんなに宿っている。
そういう数学を内に既に宿しているものが、素数という数学の中の一要素をありがたがって恥も外聞もなく取り合うというのは、もう、数学ファンですらない。そうした人たちがファンであるのは数学ではなくて、あくまでも社会の中で自分たちがどうであるか?ということ。つまり、数学なんてどうだってよくて、社会の中でおそらくあまり知られていないような知識の一端を知り得ているかどうか?ということに価値があるということ。
居酒屋素数の人々というのは、数学とかは全く関係なしに、現代社会の病巣を具現化していると言ってもいい。とにかく欲しいのだ。目に見える”違い”が。理解できたというのならそれは示さないではいられない。そうした目で見て確認できる”違い”なしでは安心できない。いや。もうある程度安心できている方の人々、既に”違い”を示せている人々らが率先して、「(自分なりに)”違い”を示せさえすれば楽に生きることができるよ♪」とさらにダメを押している感じ。このような人たちにかかれば、「あのー。自分なりの”違い”ってなかなかないんですけど~?」という切実な問いも、「大丈夫大丈夫。自分なりにでいいんだから。見つかる見つかる。」になってしまって、”自分なり”とかいう訳の分からない個人のポテンシャル崇拝と、努力っつったって限度があるぐらいに持って生まれた資質に差異があるってことも無視の偽りの多様性信仰。挙句「何て私たちってリベラルなんでしょ~」とか言って、全く弱者にとっての切実な現実とか、リベラル~なんて所詮余裕があるから言ってられるってことに気付かない。善意のリベラルただの弱者斬り或は存在無視。
”数学”を別の何に入れ替えたって変わらない。
その”何か”の真髄っぽいもの?他の大多数の人々はおそらく知り得ていないであろうことに殊更に価値を置き、さらに、分かり合い易い仲間同士でキャッキャと騒ぐ。そもそも”学問”とは程遠い、日々の気晴らしでしかない。だけれどもかなり深刻なマイナスの影響を社会全体に及ぼしている。力ある者たちの善意であるからこその悲劇。
学問の、純粋な知識探求の意義とは、それに従事すればするほど謙虚になれるというところにある。「(知識を)得られた!」という理解の感覚は快感である。しかし、即座に「感謝」が来る。何故なら、どんな些細な理解も、そこには間違いなく理解する人固有のインスピレーションは含まれているのだけれど、それ以上に先人たちの遺してくれた財産がなければ到達しえないものであることが分かるから。間違っても「僕たちはどこそこのレベルまで行けてるからイケてるよね~♪」なんて行動は恥ずかしくてできなくなる。
数学ってカネになるのか?多分ならない。
だからカネにするためにファンを増やすのか?
探求できる人が?わざわざ?
もったいないなー。
というよりも。。。
学問の意義が益々理解されにくくなるだけなのでは?居酒屋素数のエピソードを見ていると。。。
多くの人々がおそらく知り得ていないであろう世界を評価できる自分及びその仲間を称揚して安心するというのは、あくまでも実践的・倫理的場面での優位性確保の問題。政治の問題だ。区切って自らをセーフ!と宣言する。これは純粋な知識探求の営みでは決してない。生き易く区分を設定するだけ。単なる区切りの材料として学問の名前が使われているだけだということ。
そういう、知識の切り売りを促進させるような慣行は殲滅されるべき。何故なら、知識というものは本当に人類の生存にとって死活問題的に大事なものであって、切って売ったりするもんじゃないから。
居酒屋素数の人々は、ふつーにエンターテインメントとして興じているだけで、別に世の中をそれで勝ち抜けていこうなんてことは考えてはいないだろう。とはいえ、自分たちが学び得た数学っぽいもの(素数の理解或は数学に素数っていうかなりおもしろいものがあるという事実に触れたこと)に相当の価値を置いていることは否定できまい。内心の美醜だって数式で記述できるんだぞ!(多分)
いかなる些細な選択も、重大なパーソナルな価値基準(好き嫌い)が含まれる。例外なく。価値中立的、、、なんてそれこそが夢物語。
数学を齧る人、齧るまではいかないけれど何となく惹かれる人。何が一番魅力的なのか?多分価値中立性。数式をいじっている分には、主観的価値観なんて関係ない。数式を扱えることがある種の全能感のようなものにまで変化しうるのは、人間の業たる主観的バイアスからの暫時解放(自らの”弱さ”への特赦)が、ムーンサルトを決めるかのように、一回宙返り一回捻りで主観バイアスの克服・征服(仮想的”雄々しさ”)へとひねりこまれるためだ。
知識を扱いつつ謙虚さを失うということは、一人一人の道徳的心構えの問題に留まらない。そんなものよりも重大なのは、純粋な知識探求活動を妨げ、もって人類全体の財産たる知識をブツブツと分断してしまうこと。勿論知識は全て繋がっているので、いくらでもつなぎ直せるというか、繋がっていることを改めて知らしめることはできる。でも。。。無駄じゃん?しょーもない自己の存在確認とか、自分の所属レベルやカテゴリー設定とかのためにブツブツブツブツちょん切るのって。。。ベーシックインカムは、そのような”生きるためには仕方ない”とか(嘘)言ってまで続けられている、純粋な知識探求の妨害活動を止めさせられるのではないか?
知識は全部繋がっているものとして延々脈々と残しておく。それでいい。
切り取って使わせていただくなら、元に戻す方法(多分別の新たなつなぎ方になる)も示すことによって、より多くの人々に大きな知識全体の繋がりを知らせてあげるよう努めなければ。イェーイ!この切り口かっこいいだろ♪。。。かっこいいかもしれんけども。。。ちゃんと戻すんよ。。。
アンタらの周りじゃ全然問題ないんだろうけども。。。そういうこと(仲間内だけで楽しむ)やってたら、結局鼻の利く、知識商売する人が出てくるんだから。。。本来の繋がりとか無頓着に。でね。結果一番大きな不利を被るのはあなた方とは最も関係の遠いはずの人々。数学なら数字の”ス”すら考えずに生きている人々。本当はね。数学ってそういう人々の心とか生活とかまで説明したいところなんだけれど、手が回んなくなっちゃうんですよ。マーケットだの付加価値だの違うこと(生存競争は数学で説明できるとか。。。そもそも数学が適正に動員されるなら、生存は競争とは定義されないから。。。)をやられるとそれをいちいち修正して回んなきゃなんないからさ。。。
知識は切り売ってはいけません。知識って私たち自身でもあるから。もう十分切り売ってきたじゃない。いろんなもの。それでまあまあ効率的な資源開発・生産・分配システムもできた。これからはまあ不完全ではあるけれども、これらをせいぜい活用してね(ベーシックインカム。出来ると思うんだけどなー。。。)。純粋な知識探求。つまりは一番面倒なこと。。。私たち自身の探求に注力すべきなのでは?その方がより楽しく(意外な発見も含め)生きていけるんじゃないのか?と思うんだけども。。。もちっとその根拠を分かりやすく説明しなきゃなりませんな。。。
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