いかんともしがたいこと
理不尽なこと
何とかならんかったんかいなってこと
全く無関係な第三者であっても心がめちゃ痛むような。。。
絶対に元には戻らない。
勿論再発防止のために対策を議論することを妨げるものではない。
ふと足を止めて考えて欲しいことは、「魂を鎮める」ということ。
これは何も死んだ人の魂に限ったことではないのではないか?と。
全く無関係な第三者にとっても心が痛むのは、生き残った人がいるからだろう。「これからどうやって身や心を処していけるというのか?」
衝撃や刺激が強いと人は話さずにはいられないものらしい。
でも、やっぱり、騒がせ過ぎてはいけないと思う。
全く見ない振りをするのも違う。
諦めではなく、運命を受け入れるということ。
この世に生まれ出てしまった以上、起きることは起きる。起きないことは起きない。それは誰も完全にはコントロールはできない。
科学技術の効能って、それらのせいにできるっていうのがあると思う。自然のせいにはなかなかできない。だから昔の人々、いや今だって自然の影響力の方が強い環境で暮らす人々は、何かのせいにするのではなく、受け入れる。
それは弱いと映るだろう。特に文明に慣れ親しんで生きてきた人の目には。
様々工夫して、なるべくコントロール可能な範囲を広げていこうと努めることは尊い。
でも、その尊さを損なわないためにも、弱さだって忘れてはいけない。
そもそも何故強さを求めるのか?
弱さを克服するというのは、弱さについて忘れたり、卑下したりすることではないはず。
つまり、コントロール不能な様子を見て、弱い、とか言ってるんじゃなくて、だからこそ「オレが」助けてやる、と思い続けなければウソだということ。
そうするためには、いかにコントロールに成功し続けていようとも、自らの内なる弱さに無頓着であってはならないだろう。
魂を鎮めるとは、自らの魂についてなのかもしれない。
どうしても騒がせられてしまう。
それは、いかんともしがたいことには文字通りいかんともできない自らの弱さに気付かずにはおれないからだろう。
静かに語るということも時には必要だ。