フリーな言語活動とは?
あたかも世の中の全ての重荷を自分ひとりで背負っているかのような考え方。。。
何でそんなことができるのか?
まったくもって不思議。
しかも、とりとめのないブログ記事のようなものとはいえ、延々文章を書いていて、そうなっていることに気付かないってのはどうも信じ難い。だって、文章書くってことはその過程で色々と自分自身に注意が向くでしょ?それなのに、延々と「こんなにがんばってるけど、、、(もっと頑張る、ならまだマシ。でも大概、○○が良くならない。。。みたいなお話)」って言い続けるって。。。
一言で片づけてしまうと。
「みんながんばってるから」(アンタだけ特別なわけないから)
そんな記事が一定以上の共感を受け、評価されているという闇。。。
言語活動と言うのはフリーであればあるほどいいと私は信じている。だからどんな言葉が共感を呼んでいようがいまいが、評価されようがされまいが、一人一人が自由に言語活動を楽しめる方が断然大切と考えている。
でも。
本当にフリーに楽しめていれば、多分、独り善がりな考えなんかにも気付きやすくはなるはず。つまり、現時点ではまだ多くの人にとって言語活動というのはフリーなものではなくて、どちらかというと強めの制限がかかっている感じなんだろう。
どうすればフリーになるか?そもそもフリーとはどんな状態か?
イマジネーションがフリー、、、かな?
出会う言葉の一つ一つ。まずそれらの分析から入るのではなくて、言葉がどこからか出てきている以上、そこに頑張って生きている人がいると想うこと。
簡単なようでなかなか難しい。
きついコトバ、あきらかに差別的な問題発言。。。その背後にいる人間って何者なんだ??ってあまりじっくり考えなくても「悪い奴」って感じてしまうし。。。
簡単に悪い奴が見つけられると、意識していなくても、自分の方が正しいってことで安心しちゃうところがある。
もしもうまいこと超越していられるとしたら?多分「なんでこんなにあからさまに悪いんだろう?」ぐらいの注意が働くだろう。
ただ常にそういう精神状態でいられるか?というとそれは難しい。
良いか悪いか?はとっても重要な感覚だからね。そんなに拘ってないって思ってても。。。なんせ私たちは不確定な情報でもってなんとかかんとか生きていかなきゃなんないわけで。。。
まあ想像すればかなり深いところまで読むことはできるから、立場を替えてみれば、文章を残すってことは案外勇敢に自分自身を曝け出しているともいえる。そう思ってビビるよりも、さらに一歩踏み込んで、「お願い。どうぞ私の深い真意まで読んでください。」って可能性の方に賭ける。
そんな感じかもしれないな。。。フリーな状態って。