知識と情報

知識というと名詞。Knowledgeだって名詞。なんだけども。知識というのはただ獲得されるのではなくて、その後、使われる、動員されるという感じのActionが暗示されている。と理解する方が教育とか能力開発とか、組織的行動とか、はたまた社会制度の検討までも、行う上で色々と都合がいいというように考えられている。

哲学(Philosophy)の語源が「知を愛する」であることはよく知られているが、知を愛するって具体的実践面ではどういうカタチになるんだろうか?

対象が知でなくても愛するって難しい。

コミットメント?ではちょっと軽い。

もっとこうのめりこむ感じ、あと、内から湧き出る感じが欲しい。

あと自然と継続されてしまう、、ような感じも。

ということは、愛するというのは、外にある何か(対象、Objects)に一方的に向けられる行動とは違うのだろう。取り込んであたかも自身を愛でるかのように慈しむ感じ?

知識という言葉がそれ自体、使う、動員するという動詞を暗に含んでいるのだとすると、「知識を得たい」というのは「何かをしたい」ということも含まれているということ?だろう多分。

それらをひっくるめて「愛する」とは???

沢山の名前(百科事典??辞書??)を並べて喜ぶ。

というのはOKかな??多分。だってそれが喜びって人だっているし。

ただそういう場合でも、並べた結果というより、どうやっていろんな名前を選りすぐって集めてきたか?というようなプロセスの方が大事な気がする。

知を愛するというのはそんなプロセスを大切にするということ??

かもしれない。

翻って「情報」という言葉がある。

知識と比べると何となく乾いた感じ?人間臭さが薄い??どうやって生成されるか?という過程も何となく機械的なニュアンス。よって出来上がった情報もあまり個々人の個性に左右されず、きちんと読み、理解されれば、「使用可能性」とか「有益性」とかが決められそうな感じ。

インターネットが発達して情報量が飛躍的に増した。

それだけアクセス可能な情報が増えたわけだから、きちんと使い方を覚えれば、様々な価値が引き出せるだろう、いや、引き出すべく努めるべきだ?

情報のちょっと乾いた感じは、そういった暗に「おれらの価値を引き出すのも出さないのもおのれら次第やで」というような突き放した感じからきているのかもしれない。

突き放されると燃える、「そうですか」と引き下がる、(価値があるのは分かっても利用できなかったりして)怨念がこもる、マジで何も感じないなどなど。。。人間様々に反応する。

情報は明らかに人の意志で(とある目的をもって)生成されるものと、自然に、或は、既に稼働中のマシーンなどから自動的に生成されるものとがあるように思える。

ただ、私は、どちらの場合でも、基本的に人間の意志とか目的とかは、能動的ではなくて受動的(対刺激反応的)だと考えている。つまり、何かが起こったり、ただとあるところに存在する、というのが先で、それに気づくとこからスタートする、という感じ。

神さまとか魔法使いでもなければ、「そこにあれ!」とかいってものを存在せしめることはできない。

科学者・技術者でなくとも、「そんなことはない。私たち人間はクローンも作れるし、様々な自然界に存在しえないマシーンを存在せしめることができるではないか。」と考えるだろう。

私は、そういった科学技術の成果も、まず何かが存在するというのが先と思っていて、それは別に宇宙のそもそものはじまりは?とかいうところまで考えなくとも、ものすごい日常的な次元で、私の周りにどうやら同じ種族らしい生き物が日々活動しているという事実。これはその種族の誰かが「ここにあれ!」と念じたから現れたものではなく、そこにただある、のだと考えている。そして、そういう事実がなければ様々な科学技術も開発されなかっただろうと。

私たち人間の人間であることの難しさというのは、ただあるだけだ、と言われたって様々感じたり考えたりもしている、というところにある。

「ただある」というのは中々そのまま放っておけない。

「なんで?」って考えざるをえない。気づいて考え始めたら。

私もそれで色々考えるのだけれども。。。

勉強し始めるとすぐ壁にぶつかる。

言葉が難しい。。。数学とか物理・地学とか化学とかになると記号とか数式。。。

まあ圧倒されるわけです。な、な、なんでそげなもん分かるわけ???と。。。

認識と知覚の違いとか。。。絶対的認識って。。。何それ??とか。。。ええやん。なんか感じてるんは事実やし、、、絶対的って。。。

ただこだわらねばならない理由はわかる。

こだわらなければ数式なんかで表した日にゃあ、あれこれがつじつま合わなくなるし、そうしたら実用性の高い技術なんてアブナイ実験しながらでもなんでもええからできりゃあええ、、みたいなことになるだろう。

まあ究極的にはできりゃあええんやけども。。。それで以後アブナくなくなったら便利なことばっかりやし。。。

アブナイ実験(蒸気機関爆発!とか戦争とかも含む。。。原発なんかも。。。)はでも倫理的に問題があるし。。。

論理的厳密さというのはこだわり続けなければならない。

そういうふうに考えると、これまで築き上げられた知識体系というのはいくら尊重しても尊重しすぎるということはないとは思える。

私の興味は、そうはいっても私たちは生きていて、知識体系様が生きているのではない、というか、知識体系様に生きさせてもらっているわけではないのではないか?ということ。

「ただある」と反するようだけれども、知識体系様は別に神様が管理しているのではなくて、私たち人間が管理しているように感じるので、「いやいや。知識体系様というのはね、神様とか大自然様が作り給うたものなの。それを代弁しているだけなのよ。」って言われても、「でも。代弁者って人間よね?」という疑問が払しょくされない。

この「ただある」と「思惟を持った人間が生きている」との関係をうまく説明するために、いろんなものがただあるだけで、その「ただある」にも既に様々な情報が含まれていると考える。

情報が含まれているから「ただある人間」も気づいたらその先いろいろ知性を駆使して分かることができるし、それ以前に「ただある人間」だっていろんな情報のかたまりのようなもん(DNA、RNAとかは象徴的だけどこれらだけで人間が成り立っているわけではないだろう)なはずで、そういった情報がなければ「考える葦」にすらなれないのでは?と。

ではその「ただある」を「あらしめている」情報とは?

現時点で最も相応しいと思える概念は「エネルギー」。

フローで捉えられるから。

もちろん生き物なんかは恒常性維持(ホメオスタシス)といってエネルギーの一部をストックのように利用している部分もあるのだけれど、生き物はいつか死ぬから、そういった生まれてから死ぬまでのプロセス、それが個体レベルではなくて、種レベル、その他のもの(環境)との関係まで含めて考えるなら、エネルギー(情報)はフローしている。

フローで捉えて、あとこれを継時変化を追いつつ考える。

人間の感性や知性もそこ(エネルギーの経時変化が残す情報)から説明できないか?と。

そうすると、アクションを何となく暗示している知識とちょっと機械的っぽい情報との差異も案外「ない」と考えられるのでは?

「何かをしたい」という意思や欲望も、「ただある」が携える情報(エネルギー)あってこそ。

日常生活の次元だと、私たちの周りで様々活動する人々や様々なモノたちが携える情報。

特に、周りで様々活動する人々は、各々が「何かをしたい」という意思や欲望を駆動させられつつ活動している、と考えられれば、私たちが日常何気なく築いたり解消したりしている様々な関係性も、より原理的に検討することができないか?そしてより濃密なものとならないか?(人情・情念べっとりというカタチではなく)

「知を愛する」プロセスを「愛する」、で、自然生成情報も人間が築き上げてきた知識体系もより「うまく」愛せはしないか???(持続的開発?エコロジー?)

そんなこと考えてます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?