大枠から話を進めるのは限界がある

ウソではないし、理解を進めてはくれるけれど。。。

一人一人の現に生きている時間というのは、常に動き続けているわけで。。。

勿論何の工夫もない場合も沢山あるけれども、そうは言ったって生きてはいる。生きている以上は何も感じていないわけではなく、よって、拙いなりの工夫だってあれこれある。

私自身田舎住まいかぁ~と想像した際、人間関係濃いな。。。としり込みした経験はある。

かといって、入ったなら入ったなりによしなにやっていくんだろう、ぐらいの妥協の準備ぐらいはある。

その辺りは本当に人それぞれで、予め田舎暮らしは、、、と云々したところで、所詮絵に描いた餅。どちらかというと要らぬ先入観を形成させてしまう弊害の方が大きいように思う。なんつったって、実際見知らぬ田舎に(特に都会育ちの人が)入れば、ストレスの方が少なくとも当初は多いはずで、そんなときの負の拠り所になってしまいかねない。やっぱり田舎は。。。みたいなね。。。

人をハッピーにさせる解釈、ストーリーとは?ということを考えている。

いつの時代だって警句代わりのお話はあるし、豆知識程度ではあっても、何か見知らぬケースに出くわしたりして困ったときに、参照できる情報って貴重だ。

警句となると当然マイナスの事態を防ぎましょう!というスタンスになるのだけれど、脅しにまでなる可能性だってある。

こわいで~こわいで~

それでも聞いた後にハッピーな気分にならないか?というと絶対そうともいえない。

まとまった(起承転結があるような)お話には必ずレッスン(訓示)のようなものが含まれている。

とはいえ、このレッスン(訓示)のようなものは、聞いたり、読み終わったりした後で、「よし。気を付けよう。」みたいにはっきりとイイこと、悪いことを区別した上で、学ばせよう、というような性質のものではない。

それよりも、善いもんが不遇のまま死んでしまったり、悪モンが生き残ったりと、中々理不尽な例も多い。したがって、主目的は、味わうことなのですね。理不尽に出くわしたところで、動じもしないで、きっとこれにはわけがある、、、と(主に合理的に)探索に入る人もいますが、基本的にそんなに急ぐことでもない。

しかし、何でまたそんな捻ったお話が昔々から語られ続けてきたのでしょうか?

おそらく不確かだからでしょうね。現実が。

合理主義、科学的見方が一般にもかなり広まった現代でさえ、人々は必ずしも理路整然と、実証データに基づいて考えているわけではありません。この点では、大昔から人間はそれほど変わっていない。

ということは、捻ったお話も、「ほら。理屈で色々と不可解な点を自分なりに説明してみてごらん。」なんてことで語られてきているわけではないだろう。

理屈でパッと納得できるようなこと、理屈ではないんだけれどもストンと腑に落ちること、そういうのはどんな知的レベルの人にもある。

ただ全部すっと分かるなんてことは起こりにくい(ほぼ不可能)。

整理して考えてみればそうでもないことも多かろうけれども、やっぱり理不尽、不条理は日常茶飯事なわけです。

加えて分からない未来までが常に待っててくれちゃっているという。。。

広い世界のあれこれをより正確に知るためにも、まずは見る人たる自分の見る力というか、どういう仕組みで見る人は周囲の世界と繋がっているのか?について知るべきではないか?

ストーリーってその「見る人たる自分」と世界との繋がり方を様々想像させらるところに需要があるんじゃないのだろうか?

分析に入る前に、そもそも分析したくなる気持ちの動きの方に敏感になってみる。

自分の中には案外気付いてもほぼスルーで終わらせてしまっている感覚がある。それをまずは知る。そう知るからこそ、他者もそのような存在なのかもしれないという注意もはたらく。

そういう好循環を呼び起こせるお話ができたらいいのになー。。。

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