みんな知らない

二人以上の人間が関わり合えば、お互いに相手の意図だとか望んでいるであろうこととかについて、全く思いを致さないってことはない、と思われている。

実はそうでもない。

正確には、思いを致すぐらいはしているのだけれども、その結果がフィードバックされないってことが、実は滅茶苦茶蔓延している。

何故そのようなことが起こるのか?

長い長い歴史の積み重ね。

なんでそうなったのか?を論じる以前に、他者について一応想定してみていることが、自身の考えやら行動やらに何らの影響も与えない、ということの何が問題なのか?を話した方がいいかもしれない。

無理矢理遮断しているところ。

物事の後先を明確にしておくと、他者の様子に基づいて様々思いを巡らせるというのは、気合いとか意志とかで止められることではない。ということで誰かが目の前にいさえすれば、それだけで、その人がいない場合には感じ得ない何かを感じているということ。

そうした感覚にも、名前の付かない漠然としたものから、「あ。この人多分アフリカ出身。」っていう見た目だけで結構確信が持てる情報があって、まあまずは確信持てないもんは「ない」ってことでいいんじゃないか?と。証拠重視。

あとは「黒人」とかは見ればほぼ間違いないけれど、それに伴って様々張り付いてくる憶測みたいなもの(例:乱暴なんじゃ?とか恵まれてないのかな?とか)、つまり、公平公正を旨とすべき世の中では好ましくないような先入観や偏見のようなものに”囚われている”とか思われたくないような場合、もうそもそも肌が黒とか白とかどーでもいいよねー、みたいな感じでそんな話はないことにする。拘らない方がイケている。

後者の方が入り組んでいるけれど、両者に共通するのが、個々人が避けがたく感じている他者に関する様々な感覚が、「ないこと」にされているところ。

これはまずい。

証拠を挙げづらいものは基本存在しないも同じって考えは危険だ。

現実についての正確な情報を得辛くなってしまう。

肌の色の違いのように「ある」とすると、不要に差別してないか?とか気を使わなければならなくて、結構面倒くさいことはたくさんある。

でも、現実的な差異を認めないような平等概念は悪平等で逆差別。逆差別で差別は解消されず、寧ろ、悪い影響を及ぼす、というのは有名な話。

上に挙げた例でも感じられる通り、後者の「面倒なんで『ない』ってことでいこーよ」ってやり方は、なんか不誠実、不正直な印象。

社会的、文化的に低位評価を受けやすい肌の色とかってそりゃ敢えて取り立てる必要もない、ともいえる。白も黒も茶色も黄色も皆そろって良好な人間関係を構築したいと切に願っているなら、肌の色の違いなんて、事実ではあっても、いや、事実であるからこそ、意識させられる度迷惑に感じるようなもんでしかないだろう。

「良好な人間関係を!」という理想はいい。

でもねー。

そもそも、生まれ持っての資質・性質・形質に、社会的、文化的に上下の違いができてしまっているのは事実なわけで、それにはそれなりの歴史的な経緯もある。今こっから突然無視ってのは無理でしょ?やっぱり。くさいものに蓋。

「臭いものに蓋をしない」というのは、しかし、どうも道義的な意味合いで受け取られがちだ。間違いじゃないけど。。。はっきりいってどーだっていい。なぜかというと、最近じゃー、道義的な正しさが乗っかると、すぐエラそうな顔したがるから。多くの人が。

道義的な正しさってのはね。あくまでも一人一人に「よく生きたい」という気持ちがあってこそ。そんなもんどーだっていいくせに、世間で通りのいいバッジみたいなもんがただただ欲しくて道義的に正しい方に立ちたがるだけなんだったら。。。んなもんない方が絶対平和。

あるものはある。

これって一人一人がバランス保って生きて行くのにめちゃくちゃ大事なんですよ。

ないってことにしても理論上大した問題なくてもね。やっぱりあるもんはあるとしといた方がいい。ゼッタイ!!!

理論上のあれこれってさ、、、ある種非論理的なところがある。

その足し算引き算やってる間もモノゴト動いてんですけど?ってのをとりあえず横に置いちゃったりするからさ。

勿論忘れているわけではないんだけど、自分らの動かしている理論とやらがオモチャに過ぎないってことまではどうも分からないのが多いらしい。

それもこれも誤った理論偏重の影響。

分析のための枠組みだから。枠の範囲きっちり理解しときさえすればええのよ。とかね。

辻褄は合いますよ。ちゃんとしとけば。

まあでもねー。オモチャが未来永劫計算通りの正確さで動き続けてくれてもねー。大していいことないでしょ?

あるものはあるってことにしとかないとね、自分がどこにいるのか?分からなくなるんですよ。マジで。

いくら理論の世界に逃げて正確に分析したってムダ。

そこは現実ではないから。

特にあるはずのものがなかったりする。

そしてそれは理論上問題ではないとされる。。。

では現実世界で感じているはずの私のこの感覚は何???ってことになる。

肌の色の違いぐらいどーってことないっしょ?

それだけに話が限定できるならね。

物事ってのは連綿と連なっているからねー。

大事な現実の、しかも、比較的確認しやすい情報がさ、「ダメダメ。あれは『ない』ってことになってんだから。」ってなるとさ。。。結構困るのよ。

下手すると誰かのことについて満足な方法で喋ることもできなくなっちゃったりしちゃうかもしれない。

抽象的な理論の世界で様々な情報を動かしたりできることは、できないよりもいい。

でも最優先されるべき能力か?と言われれば、それは違う。

あるものはあると言う。

そうすることでやや問題が生じやすいとするなら、そうならないように上手に言えるように訓練する。

そっちが先。

当然抽象概念操作だってできた方が、いろんな言い回しもできるし、幅広い知識も得られるし、理論のお勉強だって大事なんだけどね。

常に現実の方に戻って来られないと。。。

ヤバイよ。

会話しているつもりが全く現実の相手と意思疎通できていなかったり。。。

なのに双方それに気付いてもいないとか。。。

私たちが考えること、感じていることは所詮記号化された想像上のものでしかないけれど、ややこしい現実のあれこれは割愛ってことで済ませていられるか?というと常にOKではないのです。

会話ぐらいはできてるっしょ!

とか自信ありげなあなた。。。

ちょっと注意して振り返ってみる価値あると思いますよ。。。


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