やさしいということについて

自分を唯一無二の存在であると思うこと。

これは何もナルシシズムに浸りなさい、ということではない。

また、天上天下唯一独尊、ソリプシズムでいきなさい、ということでもない。

自分の身の回りにいてくれる全ての他者に対するやさしさ。せめてもの感謝の気持ち。


キリがないということばがある。

いくら考えても際限がない。自分と他者との関係も。

近現代。啓蒙思想以降はすっかり個人を起点に様々分析することが定型・常識になってしまった。正直それによる弊害も無視できないのだけれど、もはや一人一人が個人という領域を無しにして感じる、考えるなんてことは不可能だろう。それを無理矢理ないことにしようとすると、大体伝統・新興いずれにせよ宗教っぽくなる。つまり宗教的なものに頼ることもできない。自分たちで自分たちの神さまを殺してしまった。そしてそれが個人を起点とする考え方なのだから、個人個人が神さまを作り育てるしかないのではないか?

神さまのようなものは必要なのです。

自分たちで殺してしまったというのも、「罪を犯した」とかいう類のことではなくて、歴史的?或は人間という生き物が生きていく道筋上で必然的に起きてしまったこと。

神さまのようなものが必要だ、というのも、それなのに自分たちで殺してしまった。それが歴史的必然だった、というのも、根拠は人間の認知能力の限界に根差している。

100%完全どころか、そこそこの確率で当たりそうな見通しだってそうそう確信もって立てられないわけだから。。。ということもあるけれど、人間どころか、いろんな生き物、いや、生き物でないモノにしたって、この世に存在する仕方が、「結構似た大量のものに、若干量の全く異なるものが混じっている」とか「ともかく渦だとか層だとかが形作られるようにものが蠢いている」とか、そういう宇宙の動かしがたい事実からきていることで、「認知能力」とかいう言葉自体がかなり盛(も)ってしまっている。

認知とかそれができるとか。

まあ人間というのは指数関数的に偉そうになってしまうわけです。



みんな分からないわけだから、お前より俺の方が、、、とかはあり得ないんですよ。

何が分からないって、全部なんだけど、それだとお話にならないのでフォーカスを絞ると、一番分からないのが限界とか境界。オレの能力の限界ってどこ?いつまで生きられるの?

境界が分からないってことは分かっている。いつか死ぬとか、さすがに空は飛べないとか、限界だって「ある」ことは分かっている。

難しいのは、限界が「ある」ことが分かっていたとしても、あんまり堂々とは言えないというところ。

はっきりとどこが境界ってのが分からないというのもあるけれど、それよりも、ただ漠然と「限界はある」って言うのは、場合によっては諦めともとられるし、頑張らないことの言い訳にも使われてしまう。

それもこれもはっきりどこが限界か?が分からないため。

分かりさえすれば、そこまで頑張ればいいし、怠け過ぎてたら外から見ても分かるだろう。



キリがない。

でもそういって指をくわえてばかりもいられないから、人間はより確証のあるようにと様々なものを開発し続ける。

で。一生懸命やっているうちに、そもそもなんで確証が高まるよう動いているのかを忘れてしまう。

どうひっくり返ったって、人間全員の限界なんて分からない。

全員どころか、よく知っているはずの家族親友のだって、どこが限界かなんて分からない。ある程度正しく理解できていたとしても、言い方には気を付けなければならない。というぐらい、個々の限界なんてものは各自決めるしかない。他人には決められないのだ。

各自決めるというのは自分のためというよりは自分以外の人々のため。

何故なら、それは「みんなも各自で決めていいんだよ」というメッセージにもなるし、それだけじゃなくて、「そんな簡単なことでないことだって分かっている。何故なら、私も実ははっきりとは分かっていないことだから。」とまで伝えたいという意思が含まれているから。

「勝手に決めれば?私も勝手に決めるし。」とは違うのだ。

でも違いなんてそうそう分かりはしない。

ということは、いくらでも「フリ」はできる。

「ああ。勿論皆さんのこと想ってますよ。」

ってね。

そもそもそんな舐めた態度がやさしさなわけもなく。。。


違いを分かっていることを示すためには、他者にもその「違いの分かり方」を示してあげられなければならない。

どうするか?

同じものを探す。

どんな境遇に生まれ育ってきた人でも、どんなに持たされたものが違っても、誰もが抱えているもの。

まだ見ぬ眠っている力(ポテンシャル)に、自他の限界・境界の分からなさに、不確かな未来への不安、理不尽な出来事の記憶。私たちを不安にさせるそうした曖昧なモノたち。それを前にして尚、プラスに賭けてみよう、実際確率が高くなくても賭けちゃう気持ち。

人権とかではないんです。

あくまでも科学的に分析していって、おそらくこれは万人が持っているであろうと十分推定できるもの。神さまのようなものが私たちに授けてくれたもの。

今ここにあるという事実に全てが収れんする。

絶対に無理なこと。自分が現にとっているアクションの意味(つまり自分の本当の意味)をまさにその瞬間に理解すること。

かなりの確率で約束されていること。自分が今ここにあること、とあるアクションをとっていることに対する他者からの反応があるであろうということ。

二つペアでなんとかかんとか現実を追尾できているということ。

他者からの反応は時にウザいしプレッシャーにしかならないこともある。でもそれがないと、自分が想定するモノコトが本当は一体どうなのか?が分からないままになってしまう。

ある程度受け入れるしかない。他者からの評価。

でもそれが専ら受け身にしかとられないと辛いし続かない。

だからこそ、無理やりにでも頑張って「自分は唯一無二の存在です」と思い続ける。

これは「他者からの評価の受け入れ」でもあるし、同時に、他者に対する思いやりにもなる。

あなたもきっとどんな評価がくるのか分からなくて不安でしょう。でも大丈夫。私が何と返したってあなたはあなたなりの”良さ”を信じ続ければいい。いや。そうしないと、しんどすぎてダメになっちゃうよ。ほら。私を見て御覧なさい。私はあなたからの評価に、このように全力で感謝していますよ。

やさしさを支えるのは、お互いが抱えている独力では解決不能な不確定要素への思い(やり)。

不安を抱えていることはほぼ間違いないし、それを慮ることができるのは勿論悪いことなわけがない。

でも、人間たる私たちにできることは想いを送るところまで。

瞬間瞬間でそこから何かを感じるのは各自。唯一無二のあなたであり私。

どうか思いが届きますように。

神さまのようなものに祈る気持ちこそが、どうやったって消せない不確定要素に対する強さになる。

殺してしまった神さまはもう戻らない。

殺してしまった過去に学びつつ、21世紀の私たちにやりやすいカタチ、方法で、よりよく生きる道を探らなければならない。

神さまなんてこれまでだってこの世のどこにもいないよ。私たち人間一人一人に宿っているものなのだから。そりゃ殺しちまったらしんどくもなるさ。でも宿っているんだし。活かす。いや生かせてもらう?方法はきっとある。

瞬間瞬間が唯一無二なんだ。

ちょっと間違ったって、前と姿かたちが随分と違っていたって構わないじゃないか。

ただ戻ってくればいい。

私たちはみんなそれぞれ唯一無二の存在なんだって。

でも唯一無二性なんてものは人間同士では証明しきれない。

瞬間瞬間変わるわけだから。

一本真実が貫く調和。

これを担保してくれるのは神さまのようなもの。それに向けて送る真摯な祈りの気持ちをおいて他にない。

信じられなきゃそこからはどこへも行けない。

簡単なことではないけれど。

信じられる強さを養生していける。そんな世の中がやさしい世の中なんじゃないだろうか。

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