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ビジョンと現在地

わりと長期にわたるビジョン或いは広い視野という意味でのビジョン。いずれも描いてみることの大切さは知られている。

ビジョンを描ける人とそうでない人との違いとは何なんだろうか?

知識の量や質?

そもそも描こうという意欲?

ビジョンなるものを必要であると思わないと描く努力も始まらない、という話もある。

その質はともかくビジョンを描けるというだけでもかなり希少な才能なのかもしれない。

とはいえ描けばなんでもええってもんでもないんだろう。

私はアナーキストなので私のビジョンはユートピア。実現性は低い、というかほぼない。

このように極端に実現性の低いものは、多くの人々にとってあまり意味があるとはいえない。

できるだけ広汎な人々のためになるようなビジョンとは?

ある程度実現への道筋が見えるというか、そのビジョンに向かって進んでいくという話をかなりの人間が信じることができる、ということは重要なポイント。

こうして考えてみると、現代のビジョンなるもの、将来を見通した時、ポジティブな気持ちでそこへ向かっていく、向かっているという感覚から得られる安心感が、なるべく多くの人に感じられるようなもののように思えてくる。

いくらポジティブといってもユートピアではダメ。そのあたりのバランスが上手く取れていなければビジョンとして認められることもない。やはり、ビジョンを提示できる人というのは貴重な存在だ。

とはいえ、21世紀現在のコンテキストでビジョンなるものがありがたがられる場面を見るに、神のご託宣を崇め奉る古代の人間と何ら変わったところは見られないようにも思える。変わっていないというよりも、自分たちは合理的客観的科学的実証的人間であるからして、ビジョンにしたって別に崇め奉ってなんかおらんとかいうすまし顔や、何が根拠なのかも定かでないようなお値段を付けて売り買いしている様は、人間的に退行してさえいるんじゃないか?という疑いも湧いてくる。

ビジョンが貴重とて、なんでもええってわけではやっぱりないのである。

将来について殊更憂う必要もないけれど、リーズナブルに準備していかなければならないとは思う。ただ、準備の確からしさのみにアテンションを集中し過ぎるのはよくない。これを言ってしまっては元も子もないのだけれど、だぁれも将来はおろか、次の瞬間何が起こるかなんて完璧には予言できない。準備のリーズナブルさというのは予測の確度や現実感だけでは測れない。何故来るべき未来に対して準備が必要であるといえるのか?言うべきだと思うのか?そういうモチベーションも大事。さらに大事なことは、不特定多数の他者に対して、準備を指南するに足る人間であるのかどうか?という検討。

ローマは一日にして成らず

誰もが一生懸命生きているとは思うけれど、一生懸命の結果を求めるというか、自分自身のお手柄が何かあるということにしたい、という弱さについては、せめて頭の片隅に置いておいてもらいたいものだ。

成果の積み上げ合戦に未来はない。未来がどうのこうのよりも、そもそも土台となるべきものがないので、一見何かが積み上げられているようで、全くの虚無。虚偽。いかさま。イリュージョン。

そんな危なっかしい世界でも運よく安全に生きていける人間はまさにラッキーだ。当たり前だけど、そんなラッキーな人間ばかりではない。リーズナブルな準備というものは、ラッキーな人間たち限定のマスターベーションであっていいわけがない。

ビジョンを提示する人間に求められるのはビジョンの実現性云々よりも、自らががっつり両足をぶっこんでいる現実を沈着冷静に分析する能力だろう。

まだ起こりもしていない未来について、希望や夢と憂慮すべき事態とを巧妙に出し入れしつつおとぎ話を紡ぎ、その美しさを証明することに労力を費やすよりも、ひょっとしてビジョンなるものも提示できるかもしれないという程に恵まれた能力をもって、そのまま突き進んでいってもよいものか?軽くブレーキを踏める人間でありたいものだ。

自分の置かれた現在地を沈着冷静に分析してみる。簡単なことのように思えて案外そうでもない。そこにある難しさを痛いほど感じつつ、それでも安易に過去や未来に逃げ場を求めない。そうやって地道に時々刻々過ぎ去っていく現在を生きていくより外、人類全体としての知性を発展させ、知識の土台を分厚く築いていく道はないと思う。


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