深い浅いではなく(3)
私たちは効率性を追い求める。
これはおっきな流れを眺めて間違いない。
問題はその原動力とかプロセス。
一体何を感じ考え、何をどのように経験しながら、その結果が効率性追求となって現れるのか?
「どうしようもないこと」を考えてみる。これを忘れてしまうことが効率的なのか(ウダウダ考えないでドンドン行動に移せるという意味で)?それとも、効率性とは、「どうしようもないもの」を織り込んだ上での最大値が目指されるべきものなのか?
ただ忘れることと、織り込んだ上で効率性向上を図ることとの違いは?
特に「織り込む」の方は具体的にどのような方法となるのか?
いずれにせよ、「どうしようもないこと・もの」って一体どのように定義されるべきか?
この世に産まれ出てしまったこと。
こりゃなんぼ考えてもどーしよーもない。どーこーしようとするなら「産むか否か?」で、これはこれで大変難しい問題でもあるけれど、考えたところで人類が一瞬にして滅亡してしまうなんてことでもない限り、産まれ出る命がゼロにはならないわけで、産まれ出てしまえばやっぱりそれは死ぬまではどうしようもない。
日々暮らす中では忘れちゃっててもいいのかもしれない。
ただ、「自由意志」とか「合理性」とかを過信しないためには、時々思い出してもいいのかもしれない。
安全安心を求める気持ち。
これもどーしよーもない。でも気持ちだからさ。無くなることはないけれど、様々違った見方をすることで、痛さが少なく済んだりするかもしれない。
私たちは何をもって身の安全を知るのだろうか?
一般的な効率性重視の議論に乗れば、物量。
ものが沢山ありさえすれば安心でしょ?
しかしこれは日常の感覚からするとやや乱暴にも感じられる。
勿論沢山あればあるほど安心だ。おカネも食べ物も。
問題は正確性。
一般的な効率性論議だと、正確に計算できればできるほど、手持ちが限られていても、最大限活用できたり、最小限のもので済ませられたりするので、より正確な計画に基づいた安心感が得られるはずだ。となる。
理屈は分かるけど、私たちってそんなに正確に計算してるか?こんなに各種アプリとかもそろって、「何を持っているか?」「何が手近にあるか?」とかもわりと正確に調べたり計算できるようになっているのに。
勿論できる事はやった方がいいに決まっている。
でも、単に「やれ!やれ!やらないんだったら自己責任!」って言い募るだけでいいのか?
何でやらないんだろう?
科学的視点からはまやかしであったとしても、人々が現に安心感を得ている(少なくとも生命の危機を感じるような危険は感じていない)その方法ってどうなっているんだ?
微細な違和感でもいいと思うんだけれども、やっぱり人間、「何か」動いた方がいいのかな?ぐらいの直観みたいなものがないと、いわゆる理性って起動しないんじゃないのか?
でもいつ起動してもおかしくはないわけで、理性の起動していない状態をその他の獣たちと一緒、なんてこともいえないはず。
なんとなくの安心。
これって無視できないのかなー?と考えている。