「終わってるな」と思う例
日本の企業は伝統的に年功序列・終身雇用の原則でもって雇用及び人事管理を行ってきたと言われている。バブル崩壊以降の失われた20年(30年?)を経てその原則は大きく変えざるを得なくなっている昨今ではあるけれど。
人事コンサルやざくっとまとめて経営コンサルなる人々は、年功序列・終身雇用からの脱却こそが常識で、そうやってより効率的なリソース配分をしなければ企業は消えゆくしかないという論法をとるのが流行りらしい。
そういう論法をとることができる根拠になっているのは合理性。あとは課題によっては効率性。ともかく事実に基づいて、もてるポテンシャルについても緻密に正確に把握して、最適解を導き出すべき、というのが信条としてあるらしい。いや。信条として持っていることにしておきたいらしい。合理的客観性などとも呼ばれるもの。自分たちは世のため人のためそれをこそ背負っているのだと。
私は合理的客観性なんてゼッタイ無理だから現実の諸々の事象に適用なんてするべきではない、とは思っていない。中途半端にしか考えてもいないのに絶対正しいことであるかのように信じ込んではいけない。そう考えている。
世の合理性信奉者なる者どもがどれだけ中途半端かという例に出くわした。
年功序列・終身雇用なんてもう到底無理ということを様々根拠を挙げて企業の取るべき雇用・人事方策を述べる中で、何故企業はそうせざるを得なくなるか?のバックグランドをしたり顔に披歴する。そうした効率化努力の裏には特に大企業はお国の決めた75歳までの人員の一定数雇用に応じざるを得ない事情があるそうな。なんとなれば、そうしないと監督官庁(厚生労働省)に”いじめられるから”だと。
合理的な問題解決がそんなにお好きなら、大企業が特にいじめられやすい官民関係にこそ合理性のメスを入れて分析したらどうかと思う。抜本的な雇用人事政策の変革を当然必要なこととえらそうに述べておきながら、大企業と監督官庁主導による産業経済の発展・維持というこれまたもう腐っちゃってそうなぐらいの伝統的やり方については”いじめられるから”とか言ってただヘラヘラ笑っている。合理性が聞いて呆れる。
結局力持ってるもん同士の馴れ合い。
これが日本的な病巣のでっかい部分を占めている。
なんででっかいのかというと、実際のところその馴れ合い関係には全く一切噛んでいないような人間までもが、護送船団モデルでしか世の中は動かせないというイメージを持っていて、あろうことかそうであるとは露も思っていないという倒錯が起きているから。
分権だとか地方の力だとか地に足つけて生活しているもののポテンシャル開発だとかいろんな護送船団モデルに反するかのように見えるアプローチを奨励称賛する人間も少なくないけど、結局規模も適用範囲も小さくしただけっていうね。
客観的合理的アプローチというのは、みなさん思ってるよりはるかに地味ですぐにゃあ目に見える結果なんて出ないもんよ。そもそもの話、そういうことを全く感じることもできない人間が合理的で客観的であれるわけがない。
嘘が嘘を呼んで真実なんて全くどうでもいい状態。
地道に一人一人に論理を尊重する習慣が植え付けられるように。種を蒔いていくしか道はない。
成果なんて上がんないとは思うけれど、蒔かないことには話が始まらないからね。