目隠ししたまんまではアブナイ
制限時間のあるテストでは一番難しい問題から解こうとするのはあまりいい戦略ではない。テストのフォーマットにもよるけど(順番通りに解いていかないといけないとか)、設問の順序に関わらず、ざーっと見て、得意そうな問題、できそうな問題からとっかかって、苦手な問題、難しそうな問題は残った時間でやる。
でもね。
人生においてちょくちょく出くわす問題ではそうはいかない。。。
制限時間ったって、「死ぬまで」とは言えても、それがいつになるのかなんてわかんないし。。。頻出問題ほど難しい。(難しくなければそれはもはや問題として認識されないともいえる。)
「積み残し」にも似たようなことは書いたけど、後回しも勿論OKなんだけど、何回も出くわすような難問って、最低限注意ぐらいは向け続けるか、理想的には思いっきり根詰めて考えてみることも大事だと思うのです。
人生において出くわす問題ってテストの問題とちょっと性質が違う。模範解答、絶対的な正答ってなかなかない。
だから考えたって考えなくたって別に何かがてきめんに変わるとも思えない。
でもさ。正しい答えなんてもんがないんだったら、「間違ってる??」とか、何も恐れることはなくて、自分なりに自由に、気持ちの向くまま、思いを巡らせてみても全く問題ないんじゃないのか?
さらに。答えが出にくいってことは、他の人にとってもそうなんじゃないのか?
ってことは。もしも運よく答えっぽいことが言えたとしたら、いろんな人にヒントみたいなものぐらいは提供できるんじゃないのか??(押しつけは紛争の素だけども。。。)
「答えっぽいこと」。。。
これってテストの模範解答みたいなもんとは違うんじゃないのだろうか?
うーん。例えば。。。
考えた過程の開示??
例えば、同じ数字を見たって、それから何を連想するのか??は必ずしも一致しない。この一致しないわけ。つまりは「何を(数字)」ではなくて、「どう」考えたか?考えた過程の違いって、突き合わせてみると結構面白い。
とはいえ、「考えた過程」なんて、どう伝えられるか?難しい。というのも、言っちゃって何らかの形を与えられた時点で相当”生々しさ”が失われてしまうから。別の言い方をすれば、実体験などの生データから、かなりな取捨選択を強いられるので、なかなか選びきれないか、または、選べたとしても「随分端折られたな。。」という印象が大なり小なり残る。要するに多少の抽象化は避けられないということ。
さらにもしも聞き手の方に、テスト問題に正誤がある如く、何でもかんでも正誤で考えるクセが浸透していたら。。。
「自分の頭で考えない」
これ既に言い古された感があるけれど、内実は「正誤の強調のし過ぎ」なんではないか?
「間違い」を恐れるのはほぼ避けられない性質の一つと言っていいぐらいで、別に今に始まったことではないはず。でも恐れるあまり”間違いとはまず言われない必勝パターン”の追求ばかりになるのは却ってコワイように感じる。
自分の頭で考えさせるための設問とかカリキュラム開発とかも必要性が議論されてきているけれど、20人とか30人とか割とまとまった人数に何かを教授しようとしたら、何らかの形で抽象化された(実事例を元にしたケーススタディではあっても)教材・資料などを使うだろう。マンツーマンの設定であっても話はそれほど大きく違わなくて、説明するとか教えるとかいうことには必ずモデル化されたものによる媒介が含まれる。
そういった媒体が、”科学的合理的に証明済み”の烙印を押されて世に出回れば、多くの人が媒体の”認証のある/なし”について主に議論するようになるのも不思議ではない。つまり、「自分の頭で考えない」というのは、自分が何を感じているのか?とかそもそもの問題意識って何だったのか?よりも、そうした伝えづらいものだって、認証済みレーベルの付いた媒体によって、間接的にでも伝わるのではないか?より望ましくないカタチとしては、認証済みレーベルに科学的合理的反証を加えないで文句をつける奴らは、文句をつける方が間違いで、認証済みのものは正しく理解されるべき。そうでないと建設的な議論が不可能になるだろう。と強く信じてしまう、ということになる。
勿論すでに十分な実証見分を経たものは、そうしたものとして理解はされるべきだろう。見分の過程を全く無視して、印象のみで文句をつけたりすることは全く生産的ではない。
であってもだ。
どんなに合理的科学的な検証を経ていたとしても、媒体はあくまでも媒体であって、一人一人がそもそも感じる問題意識のようなものそのものではない。
私は、媒体の認証済みレーベルのある/なしにばかり気が行って、肝心の一人一人の気分とか好みとかが「当然各自知っているでしょう」という感じで振り返られないことは問題だと考えている。利己的利己的って言うけど、私たちって自分自身の欲望とか気持ちが向きがちな方向とかそんなに正確に把握しているわけではない。
知識というのは既にそれ自体に「その後何かする」というアクションが埋め込まれている。だから何か知識を得るということは、どんなものであっても行動に反映される。
で。それが「『自分で調べろ』と言う」じゃあちょっとさみしい。
原理原則に則って既存の媒体を理解し直してみるというのは理想だけれど、誰もがいつでもどこででもできるというような代物ではない。
では誰でもいつでもどこででもできることって何なのか?
私は、「誰もがよりよくやりたいと思っているけどそれはそうそううまくはいかない。」ということを忘れずにいる、ということぐらいなら可能性はあるんじゃないか?と考えている。
面倒なことは大概力のある人が勝手にやってくれる。
でも力のある/なしは予め決めつけることが難しい。現時点で出来ないことがその後出来るようになるなんて例は枚挙にいとまがないし、現時点でパワーを発揮しているのに、全くそれに気づかないなんてことも当たり前。
そんな世の中で、全員に須らく原理原則に基づいた検証を強要することは却ってフェアではないのではないか?力関係のバランスが実は分かってないんだもの。。。
合理的科学的検証を経た知識というものはきっと私たちみんなの役には立つ。とはいえ、そういった知識を正確に得たからといって、人生を生き抜くうえで「答えっぽいもの」に必ず辿り着けるか?なんてのは全く予測できない。
なら「答えっぽいもの」が見つかったら教えてあげる、ってことでいいんじゃないのか?
認証済みレーベルを巡って、正確だの誤りだのを論争したって、あまり社会全体のためにはならないような気がする。
そもそも厳格な理解の大切さを分かっているってことは、曖昧なモノ不確定なモノが私たちの人生には満ち溢れているってことが分かっているってことなんではないのか?だからこそ異なる文化や伝統、風習を携える人々の間でなんとか共通理解を分け合えるよう、一つの拠り所として合理的科学的知識の体系、それに至るための厳格な手法ってものが、苦肉の策として編み出されているんじゃないのか?
有名なバベルの塔のお話にある”共通言語”って、そういった苦肉の策が投影されたものなんではないのか?
”共通言語”がないのが当たり前。だから誤解から生じる無益な争いを避ける方策が必要。
別にそれは狭い意味での言語ではないはず。
そして、合理的科学的検証を経た知識が”共通言語”の現実面での代替物だとしても、その代替物を完璧な”共通言語”にしようと努めることは、それほど喫緊に必要な試みでもないのではないか?つまり、合理的科学的検証を経た知識というのは、あくまでもツールであって、それ自体が目的ではない、ということ。
これは所詮ツールだと言って軽視することではなくて、どちらかというと、ツールって私たち一人一人の想いの宿ったモノだよねって慈しむこと。
認証レーベル付きのツールって大切なものだけれど、それ自体は命を懸けてまで守り続けるべきもんでもない。ツールである以上継続的に更新・革新されていくべきものだろう。
ではそういう継続的更新や革新ってどこから生まれてくるのか?
間違いなく私たち一人一人の生活の中からだろう。
受験生にお馴染の悩みの一つに、ついつい参考書や問題集をいろいろ買いたくなって、実際一冊も通してみていない、という目移り現象がある。実は参考書なんて必要なくて、教科書だけでも一冊完璧に理解してみるってだけでデッカイ効果は得られるのだけれど。
「うまくやりたいけどなかなかできない」
受験勉強なら「手早く正解に辿り着くこと」なのだろうけれど、そんなシンプルな目標だって、なんでなかなかうまくできないのか?には多様な要素が絡んでいる。押さえておくべき既出の単元の理解が不十分であったり、お腹が空いていたり、そもそもなんでこんなことやんなきゃなんないのか全く納得できていなかったり。。。
生きていればいろんな自分の要望・欲望以外の制限や強制を受ける。
黙ってがまんしてやり続ける方がいい場合もあれば、本当に何を欲しているのかを見つめ直してみる方がいい場合もある。
家庭や世間や所属する組織からの強制にしたって、自分自身との関係性で考えてみるしかない。
世に”お墨付き”とされている知識だけを見ている、というのは、肝心の自分との関係性が疎かになっているということ。
これって何も非人称的な”知識”とか”概念”とか”情報”にだけ言えることではなくて、クセになると”対人関係”さえ非人称で考えるようになってしまう。
どういうことかというと、例えば子供にモノを教える際、当然彼・彼女に解ってもらいたいって願っているのに、いい教材を使っているか?とか教材に載っている問題ができるかどうか?ばかりに集中して、彼・彼女が今、おそらく未知の知識や概念に遭遇して一体何を感じているだろうか??既に知っている自分の放つ言葉の意味って通じているんだろうか??っていう肝心なやりとりの部分が疎かになってしまう、ということ。
自分自身のことってめっちゃ面倒。
でも、こればかりはどんなに力のある人々だって他人の肩代わりなんてできない。
だけれども、現状見るに、どーも何かに肩代わりさせられるって信じているようだ。
特に力のある方の人々が、他人様のことは全部は面倒なんて看られないってこと、自分自身のことと照らし合わせて気づくようにならなければならないのではないか?と考えている。
自分だけがうまくやりたいけどできないんじゃない。
見えていると信じている目に映るもの。
実はその信心こそが私たちの心眼を曇らせてしまうもの。
これまた言い古されたことだけれども、逐次思い出すクセをつけることが肝要だと思う。