1.2考えるのは常に人間でも人間の考えるは動植物達からも学んだもの

つまり動植物達も感じ考え、感じたこと考えたことを通信し合う。

人間がそれらから学ぶというのは学ぶというよりも彼らと同じような部分を共有しているということ。人間だけが生き物ではない。

ただ学ぶという以上彼らの感じるや考えるとは異なったはたらき方をする。

例えば、動植物たちは感じ考えるけれども、自分たちが感じ考えているかどうか?までは確信を持てていない。

私は、「動植物達も感じ考え、感じたこと考えたことを仲間と通信し合う」ということを大発見、或は、自然の神秘って感心したり喜んだりして済ますのは好きではない。何となくえらそうというか、本当は彼らから学んでいるのに、「おお。君らも考えてたんだね。」と自分達の考えるを必要以上に特別と見ている感じがするもので。。。

ひねくれ者です。

でも、私たちが感じ考え、感じたこと考えたことを仲間と通信し合えているとほぼ確信をもって理解できているという事実は、他の動植物達が彼らなりに感じ考え、通信し合っているという事実に基づいているのだから、やっぱり、ことさら特別視することではないと思う。特別視するということは、つまり、私たちのルーツに気が付いていないとか忘れてしまっているということ。どちらかというと、特別視よりも、当たり前のこととして感謝すべきだろうと思う。

感謝とは、他の動植物達が感じ考えていることを私たちを構成するものどもの一部と理解すること。そうして初めて私たちの感じ考える能力、感じたこと考えたことを伝え合う能力の特別さ、貴重さそして彼らの感じ考える能力・伝え合う能力に劣る部分にも気付けるのだと思っている。

優れていると思うのは、スピードと、確たる証拠がなくとも類推で割と正確な情報伝達・解釈などが可能なところ。

劣っているのは正確性。証拠確認などをとばす(後付けはするし、だからこそとばせるんだけど)わけだから、、当然ながら、人間は間違っちゃいますね。他の動植物は遅くて、類推の幅も狭いから、道具使ったりもできないし、通信可能事項や範囲が非常に限定されるけれど、平時は間違いという間違いはほぼないと言ってもいい。

プラスマイナスあるとはいえ、やはり、人間の感じる考えるは種としてのセーフティーネットという意味で優れていると思う。動植物達の正確な感じる考える及び情報伝達だと、例えば突然変異のように、外部環境への適合が起きた場合、人間の情報伝達のスピードと比べればめちゃくちゃ時間がかかるとはいえ、自然界の悠久の流れの中では割と急激な変化が種としてまとまって起こることになる。ということは、それほど適合してなくて、種としてまとまって変化しちゃったがために、ほどなく絶滅なんてことも起こりうる。一旦外部環境への適合で間違うとサッとは修正が効きにくい。

でも、人間の場合は普段から間違うわけだから、一応間違うものとしてのブレーキが効きやすい。はず。つまり、全部一気に同じ方向というよりは、大きな流れとして大間違いってことは避けられないかもしれないけれど、多少なりとも多様性でもって大きな流れに引きずられなかった者たちが生き残れる可能性も無きにしも非ず。多分、今こうして地球上にくまなく人間が住んでいて、数としても70億なんてものすごい数生き残っているというのは、そうした人間特有の間違いやすい感じ方考え方、情報伝達の仕方も結構貢献しているのだと思う。

やや危惧されることは、そうした優れた?というにはちょっと憚られる”間違いやすさ”なんだけれども、最近は積極活用されるというよりも、真逆の方向に進んでいるように感じられること。そう。みんな間違いたがらない。間違いはなくせるものと信じている。一つの方向性への偏りがかなり進んでしまっているのではないか?ということ。

間違いが許容される社会の方がよりやさしいだろうとは思う。けれども、こと科学技術や論理の間違いってのはそれとはお話が違う。やはり正確に事実証拠確認していかなければならない。ただお話が違うといった通りで、いくら事実証拠確認や論理整合性がしっかりしていたとして、とある科学技術が採用される/されない、といったことが”間違い”だとは必ずしも言い切れない。勿論間違いである場合もある。すなわち、どんなに完全無欠な科学技術でも、取り敢えず採用される/されない、という間違い、理想的にはそうすることの明確な理由・根拠があればいいんだけれども、まあなかったとしても、一応その筋もありかな?ぐらいの許容性はあってしかるべきではないのか?と。なんてったって、完全な未来予測なんて不可能なんだから。

この微妙な許容性がない(「正しい」とは「科学的論理的に正しい」ということに限定される)と、どうしてもみんなが縮こまってしまうというか、正しいことを言える人間が限られてしまう。で。正しいかどうか?あまりこだわらないで(どうせ自分らに正しいことは言えないと思い込むから)、正しいこと言っている人に間違いの責任を丸投げする感じで、敢えていい加減なこと言う人も出てきてしまう。

大事なポイントは、人間がすることって間違いは避けられないということ。避けられない以上、逃げようとするのは無駄であるばかりか、より大きな間違いを起こす可能性が高まる。知らんぷりをきめ込むというのは相当危ない兆候。間違ってもいいっていうのは例えば科学技術のことを考えるのであれば正確性にどこまでも厳密であることが前提。つまり誰もができることではない。じゃあ大多数の人間は何をどう間違ってもいいのだろう?何に厳密であるべきなのだろう?

ヒントは「積極的」利用。

冒険するんです。

仕方がないからじゃなく、敢えて間違いかもしれない方を選ぶ。

そうすることに対する恐れってたいがいその時代の本流の規格みたいなものに照らして外れているだろうなーというところから来る。厳密であるべきなのはそこ。何を恐れているのか?ということ。恐れの正体というよりも、その素となる、自分なりに「こうしてみたいなー」という希望とか勘。それらが何もないなら、恐れなんて抱かない。つまり、恐れを漠然とでも感じた時はチャンスなんですね。自分は一体何を望んでいるのか?を垣間見る。

まあ、漠然とした恐れとか望みとかそれを垣間見るとか、、、その程度の曖昧さなので、はっきりした答えなんて見つからない。でもいいんです。

え?全く厳密じゃないじゃん!?

いや。私からすれば、その辺に注意を向けられるだけでも十分厳密だと思うんですが。。。だってそもそも私たちって自分のやってること、感じていること、考えていることになんて四六時中注意しているってことはないじゃないですか。そんなのいくら注意せぇって言ったって無理ですよね?常には。

全員が科学者技術者論理学者ではないわけだし、また、そうなるべきでもないので、そういう人たちの専門分野でいうところの正確性は相当アバウトでいい。というか必ずそうなる。もっと大事なことは、他人に頼ること。責任の丸投げの真逆。自分が不明・不安に感じていること。相当アバウトなそうした感覚について、「何か答えが返ってくるんじゃないか?」と他人に答えを暗示でもなんでもいいから期待してみる。期待するわけだから、当然ちゃんと聞こうとはしますよね?自分自身のアバウトさやこれをなるべく減らそうとしているってそもそもの目的も忘れずに(←これがないと甘々な自己像の再確認にしかならない。つまり他人のコトバなんて聞いちゃいないってこと。)。逆に自分自身の感覚的なアバウトさに無頓着でいると、つまり、何か発言している以上その言葉に照らして自分は間違っていなかろうと過信していると、他人の返答とかから読み取ろうとするものだって、字面に相当限定される。自分が求めている意味とかじゃなくて、他人が正確に言っているか?間違ってないか?など。

「冒険」なんて大袈裟と思います?

いやあ。結構な冒険ですよ。よくも分かっていない自分を晒してまで、他者の反応からちょっとでもよく知りたいなーなんて思うのって。今の自己責任論跋扈の世の中だと尚更だと思いませんか?事実そんな「自分を知りたい」だなんて恥ずかしいこと、まっとうと自負している大人たちはほとんどやろうとしなくなっているし。。。

でもそういう態度って自分自身だけじゃなくて他人についても見ない振りをしている。よく分からない自分自身なんてものに拘ったり人目に晒したりし合うより、お互いに目に見える証拠でもってやりとりし合う方が、その限られた材料からプラスの意味を引き出せる限りにおいては、楽だし、おまけに「正しい」とさえ信じ込める。でもどんなに確たる証拠でも、それを取り扱う時、私たちは他者にはほとんどうかがいしれない自分だけのプロセスを経る。つまり、証拠以外の素材を参照する。「厳密に証拠だけに基づいて」なんていうけれど、結局異なる人々が通信し合うってことは、それぞれが大なり小なりの加工をするし、それも踏まえた上で妥協点を導き出してもいる。でなければ抽象化されたアイデアなんて伝え合えない。

見過ごされがちなのは、抽象化のプロセスって、どうも納得できない、理解できないということが多々起こるということ。学校の教科になっているように体系化が進んだ知識なら、みんなで共通の抽象化プロセスを学んで、ほぼ同じ答えを引き出すことも十分可能だけれど、そんな体系化されたものですら、「分かりにくい」「全く理解不能」という人もわんさか出てくる。複雑な歴史的経緯や環境、その他が絡み合って私たちの目の前に現れる出来事なんて、全員が同じように理解することはあり得ない。それなのにまあまあ「この理解でOK」というものが、目に見える証拠だけを気にすればいいわけだから、かなりのスピードで出来上がってしまう。そうなると、「うーん。ほんまかなー?」って感じられればいい方で、圧倒的に多発しているのは「全く興味も示さない」というやり方。だっていろんな事件・事象、社会問題なんかがどんどん現れては勝手に解釈されてそれが正しいとされていくのよ?敢えて自分自身の感覚に照らしてどうか?なんて考えられますか?

どんなに天才的な人だって全部は無理だし、結果、どんどんどんどん場当たり的に、その時点で緊急に「正しい解釈」が必要と感じられれば、既に専門家とかの名を馳せている人々に解釈させてお茶が濁されていく。凡人たちはどんどん興味を示さなくなる。

私が問題視するのは、興味を示さないでいるってことは、エライ人々の解釈から影響を受けないというわけではない、という点。逆に、じわーーっと浸み込んでいるかのように、適宜必要に応じてつまみ食いがされている、というのが実情。間違いが許されないのなら、それなりに取り繕える。だって今の時代の正しい解釈って突き詰めれば、本当かどうかはさておき、「これでゼッタイ間違いなし!」って扱いになってしまっているから。おおっぴらに「間違いかもしれない」とは言えないことになっているんだもの。そうやって大手を振って正しいと言われているものだもの、つまんで食ったって間違いではないはずでしょ?間違いってんならどこの誰が言ったのかは知らないけれど、それを「正しい」って言ってる人じゃん?俺じゃねーよ。って感じ。でも最近じゃあ、「正しい解釈」を発する者たちの方が、「絶対間違いないなんてあるわけないっしょ」とか仄めかしだしているけど。。。それはものすごく無責任なことで、「間違いかどうかを判断するのはお前らだっ」と。そもそも自分たちが影響を行使したいから「正しい解釈」なんてものを発しているのに、間違ってても知らんって。。。もう修羅場としか思えない。。。ぐちゃぐちゃな方が実は自然で、いろんな可能性も出てきそうだけれど、なんかやり方が醜い。勝手に一部が決めて、その他大勢はほぼ無視。この負のスパイラルを何とかしたい。

やはり私の考えるのはまあまあポテンシャル持っている人々の活用の仕方。そのポテンシャルを「冒険」に使ってもらいたい。具体的には、見えないものに注意を向けるわけだから、そのやり方ぐらいは明確にする。

私たちのイマジネーションとは、とある境界線を越えること。地理的空間的な境界線もあれば、地位や身分の差、時間を逆回しに辿ってみるとかも。私が注目しているのは、道徳的正しさに駆動されて越える場合と、普遍的法則に依拠して越える場合の違い。現代は圧倒的に後者の威力が強い。さらにこの二つの異なる境界の越え方ってお互いに無関係ではなくて、例えば、

道徳で越えようとして、普遍法則を突き止めようとする場合、

既に普遍とされているものを参照してから境界越えをしておいて、越えられたことをもって道徳的正しさとする、とか。

道徳というのは、各自の日々の感覚からよりよいものを!とほぼ無意識に求めてしまうものがより意識の前面に上ってくることなので、理想的なのは前者なんだけれども、これはもう自然にやれる人にしかできない感じ。たまたま。努力では無理。努力するってことは、その時点で普遍法則への過度な期待が含まれてしまう。「これさえあれば」という。自然というのは「とある道徳的正しさが、普遍法則で言えるならば多くの人々の悩みも広く解決されるのではないか?」というように、あくまでも日常重視のまま普遍法則を取り扱える感じ。

現代を動かしている人々が乗っかっているのは、「普遍法則から出発して、様々な問題などを越えたければ普遍法則に基づきなさい」と言ってあくまでも道徳だとかなんだとかは関係ありませんという話。大事であるとは思っているかもしれないけれど、道徳に拘っていては普遍法則には辿り着けないという立場。言い換えるなら、越え得たもの(探し当てた普遍法則)を自ら称賛する感じ。

逆に敢えて批判的に見ることで、新境地を拓くこともできる。これが科学的・分析的批判。主に科学者や批評家と呼ばれる人たちがやっていること。これが庶民に少しでも伝われば、、、つまり、道徳的正しさを求める心に還元されれば、多分続いて、その道徳的正しさの境界越え可能性を探るべく、普遍法則の追求・検証へという流れも出てきやすい。はず。まあほぼ起こらないけど。。。

このように、イマジネーションと一口に言っても、ぐるぐるぐるぐる回るというか、まあ回ればいいんだけれども、とある方向に偏ってしまう感じ。そういった偏りは致し方ないとしても、異なる越え方もあるし、それなりに意味がある、と知ることが大切と考えています。

あと、そもそも何で境界越えをする必要があるのか?なんだけれども、まあ境界越えってのは目的ではなくて、自然とやってしまうことなのです。

自然とやってしまっているんじゃあ「冒険」でもなんでもないんでは?

まあそうとも言えます。でも「冒険」にも色々方法がある。上に述べた通り。

冒険冒険言ってきましたが、そもそもそれって何なんだ?何が冒険なの?

人間って、他の動植物と違って、確たる証拠を直接扱うの止めちゃったんです。確たる証拠。積もり積もったそれらの中から現われるパターンを見ることにしたんです。そうすると、必ずしも確たる証拠が積もり積もらなくても、似てさえいれば「これ?」って試しに当てはめてみたりして、まあまあうまくいけばOK、外れたらまあもうちょい待ってみるか、ってこともできるので、時間的な感覚(振り返りや予測)も延びる。確たる証拠と全くの無関係というわけでもないからまあまあ当たるし、このパターンによる情報マネジメント作戦は効率的でもある。とはいえ、まだ確たる証拠もないのに動き始めるって。。。私たちはもはや当たり前にやっているけど、とんでもない冒険と思いません?

そんなことを生まれた時から(多分胎児の時から既に)やらされちゃっているわけです。そりゃ生まれてすぐだって思わず笑っちゃいますよね?え?んなわきゃないって??いやぁーわかんないっすよ。本当にそうかもって結構真面目に私は推論してます。多分脳みそが、だと思うんだけれども、「なんかパターンくるからとりあえず見とけ」って、そんな曖昧なこと言うもんだから、赤ん坊だって困りますがな。。。困ったら笑顔筋(正確な名称は知らない)動くんだそうですよ。人間って。まあ赤ん坊の笑顔や笑いはそれだけではないんでしょうが。

話はそれましたが、やっぱり冒険なんで、心配や不安はあるんです。なんてったって分からないものに向かっていくわけですから。不安があればそりゃ少なくなるように反応しますがな。普通。拠り所となるのが似ているものっていうのはまあそもそもの確たる証拠からパターン重視への移行の原理から考えても不可避な結果。似たもの/似てないものをベースにパターンを増やし、どんどん抽象性・普遍性の高いパターンへと発展させていく。つまり、私たちの境界越えとは、根拠不十分な中でのパターンお試し。そうすることで何を期待しているか?というと、「そうですそうです。アナタ(のパターン)そんな感じになってます」っていうのを、似ているなーと感じたもの(だからパターンと見えたもの)、そこから返ってくる反射(本当のところどうなの?)を対照して、どんどんと表情や身体感覚なんかも含め自己像を固めていくのに不可欠な過程なんです。だからある程度自己像が固まった大人なら、敢えて冒険なんてしなくなる。より安心確実なパターンが蓄積されているから。でも不十分な証拠に基づいて様々判断し続けているので、大なり小なりのズレは生じる。それが大人の世界。

まあ大人なんっつったって大して偉くもないわけです。本来冒険し続けるよう宿命付けられているのに、止めちゃって、その上、まだ冒険する気満々の子どもや若者たちを躾けちゃおうなんて偉そうな顔するんですから。。。

「自分探し」なんていうと唾棄したくもなるけれど、「自分が今どうあるか?」という確認は大人としてのマナーだと思うんです。常に不確かな証拠に基づいて考えたり行動したりするわけですから。それは自分自身のためでもあるけれど、社会的な動物たる人間ですから、より重要なのは他者のため。自分がどうあるか?を確認するというのはナルシシズムではないんです。真逆。「どうぞ私のこのあやふやな姿ですが、どうか皆様のご自身ご確認にお役立てください。」ということ。ついでに、「可能なら、自己像の確認の仕方っていうのは、こういうやり方(敢えて不確かな自分を他者の目に晒してみる)もありますので、よろしければご参考下さい。」って言うこと。そういう気持ちがあるなら、嘘やまやかしの姿で自分を取り繕うなんてことはしない。だって他の人にとって何の役にも立たないんだもの。逆により他者を混乱させることはできても。。。

ま。かっこつけ合っているだけでは、誰も育たないし、窮屈なだけだと思うんですが。「自己を晒す」なんていうと抽象的で、気も進みにくいだろうし、そうですね。みながもっと気軽に境界越えを試してみやすくなるように、境界越えの方法。もっと具体例なども盛り込んで分かりやすく説明していきたいです。

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