何もなくても生きるには

炎上商法ですか。。。

ま。それも仕方ないところはある。何もないんじゃね。

炎上商法は燃やす覚悟があるって意味でまだマシ。

手に負えないのはもっと陰湿。

そもそもどんな人間だって、考えない人だって、いや、考えないからこそ、完全に何も持ってない、なんて信じちゃいない。

なのに「何もないよ。私。」とか平気でウソをつく。そのわりにはちゃんと頑張っているよって言うために。。。湿っぽいね。。。

論理学的にも「何も持っていない」ってのを証明するのは非常に難しい。ほぼ不可能。

そんな知識あろうがなかろうが、すっかり何もないなんてのは直観で「そりゃさすがにないわ」って察知してしまう。

かといって、「じゃ何があるのさ?」ってのをいちいち証明するのは案外勇気がいる。勿論根気とかある程度の合理的思考とかも。しかし最もおっきなカベはパワー。この世に生きている人々に、遍く同等のパワーが備わっているわけではない。同じことの証明だって、より簡単に主張できる人とそうでない人との間にはおっきな差がある。

もうさ。

証明とかやめない?

あさましいし、何よりしんどいでしょ?

”〇〇資産”があって生きていられるとかさ。。。

お前ら機械かよ?

ガソリン注入しさえすれば動き続けられるんか???

生き物が生きていられるのは偶然の賜物。賜物なの。だから尊いものとして扱うべきなの。

なんか、生きてるのがたまたまだとか言ったら生を冒涜しているかのごとくとらえられがちだけど、全く逆だと思うのよね。

結局意義だとか理由だとか論じたくなるのって生きているからこそよね?

じゃあ既に死んじゃった人は?

「〇〇だから生きている」って生きている人が言っちゃったらさ、死んじゃった人が浮かばれない。

そう思いませんか??

思わないかなー?

あのね。死んじゃった人って、、、どんな風に生きていたか?なんて分からないでしょ?だからなのよ。「死んだ人のことを悪く言うもんじゃない」って言われて、それほど違和感ないのって。

生きてる人って死んだ人のこと分からないんですよ。

死んでないから。

そんな簡単なことも分からない。

それぐらい生きるのって大変だとも言える。

でも分からない者同士が生きるってのはこーだあーだ言い合ってるのってホントバカバカしい。

ただの偶然なのに。

それよりも、生きている者同士が各々「…だから生きてる」とか言い合うのって、何がいけないって、死んじゃった人々に失礼過ぎるのよ。

言えば言うほど死んじゃったってことが蔑まれてしまう。

おかしいでしょ?

誰だっていつ死ぬのか分からないし、でも、結局いつかは死んじゃうのに。。。

死ってものを蔑むつもりなんてさらさらないってことも分かる。

でも生きている意味とかに一生懸命になればなるほど生の方がいい方で死は悪い方になってしまう。意味がない。認められない。知らないことなのに。知らないことだから。

有名な言葉があるのですよ。

語りえぬものについては沈黙しなければならない

ヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』

生の意味とかに必死になりすぎるから死んじゃった人を弔おうとする気持ちなんて後回しになる。

それよりも、生の意味って何かなきゃいけないって錯覚するからウソまでつく。

「何にもない」なんてウソつくからすべてが拗れる。

人間って弱いし、言葉って便利過ぎる。

直観でウソって分かってたとしても、通じ合うなら話し続ける。いや、誰かが言っていることは「分かる」という前提でいくぐらいやさしいのだともいえる。弱いというよりも。

何もないってことはない。

確かに他人が発する言葉を分かってあげようとするなんて全員が本能的にやってしまうことだし、それほど意味なんてないのかもしれない。少なくともそれで差異を付けて価値を付けて売って食ってくなんてのは無理。

だとしても、何かがそこにあれば分かろうとする。それがある以上何かは起こる。生きているうちはね。

世の中勝ってる感じの人が目立つし、結構沢山いるように見える。ならそこを目指さないってのもちょっと怠けた感じもするかもしれない。

割り切ることですよ。

勝っている感じの人だって決して一様ではない。たとえ必要以上に偉ぶっている人だって、その人が巻き起こしていること。それで食っていけているようなもの。それらには何かヒントはあるのかもしれない。

逆に、勝って行けているからって人格的に優れているなんてこともない。

その辺は同期はしないと割り切る。

市場価値・利用価値の高いものを作っているからって特に生きている意味が高いわけではない。

繰り返しますが生き死には偶然の賜物です。賜物。

何かいいものめっけたら、そのことにまず感謝してから、その思いもいっしょにシェアするようにしたいものです。

誰だっていい方がいい。

それは幸せへの意思。

ほぼ本能的とはいえ、他人の姿や言葉を「分かるもの」とアプローチすることは意味のあることです。それが幸せへの出発点なのだから。

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