アクションは自動か?他動か?
結論から言うとどちらともいえない。
なぁんだ。結局分からないんじゃん。
ご失望の皆さまもどうぞしばらくお付き合いのほど。
私がことばの力に着目するのは、第一に個人個人のモノの感じ方とか考え方を、一人一人、自分なりの方法で操作しやすくできたらいいなー、という動機からなのですが、そうすることによって社会のあれこれも、自分なりに分析したり、納得できたりするんではないか?という思いがあります。「自分なりの方法で操作できるようになる」なんて言うんだから、勿論いわゆる”自由意志”ってやつを軽んじたりするつもりはありません。がしかしです。私の理解では、”自由意志”ってやつさえも、私たち一人一人がえっこらやっこら生きていて、その中で構築されるもの、さらには、えっこらやっこらにもいろんな場面があるわけだから、”自由意志”の発揮のされ方だってケースバイケースで異なるだろうと。つまりは非常に曖昧でふにゃふにゃした感じのものと捉えておく方が何かとよいのではないか?と考えているのです。”自由”なんていうぐらいだから、別にどうでもいいときには発揮しない自由だってあるだろうと。
実際振り返ってみれば納得できると思うのですが、私たちは行動の一つ一つについてこれこれこういう目的でやりましたなんて言わないし、言えたとして、それが正確であることが証明されたとしても、本当にどれぐらいの”意志”があったかなんてことまではほぼ証明不能だろう。しかし、それとことばの力と私たち一人一人の考え方とかの操作の方法と、さらには社会のあれこれについての理解がどう関係があるというのか?
私たちのクセといいますか、ほぼ気づかないでやっていることに、「いちいち誰か(注意!:”何か”ではない!)のせいにする」ということがある。この言い方だと、非常に否定的なテーストが強くなるのですが、別にほぼ気づかずにやっているわけだからして、道徳的にいけない、なんてことはまず言えない。なので、道徳的な理由ではなくて、単純に、世の中のあれこれを解釈する方法を広げるために、そういうクセを知っておいた方がいいだろう、ということ。
より詳しく説明すると、「誰かのせいにする」というのは、まあ鏡みたいなものを仮想して、そっからの反射を見ようとする、という感じ。なんでそんなことをするのか?なるべく不安を小さくするため。不安??何それ??
私たちはいわゆる”自由意志”を持つことによって、常に不安とか曖昧さと対峙させられているのです。それはいやだと言っても無理で、だからこそ瞑想による解脱、滅私、”自由意志”なんてあたかも存在しないような世界を夢見るのです。そもそもの因果関係があべこべで、”自由意志”を持ったから不安に苛まれるのではなくて、不安というか「別の行き方」もあるんじゃないか?と気づくことができるようになったからこそ”自由意志”なんて呼べる代物もじっくり時間をかけて形作られてきた、というのが事実。まあ要するに、私たちが「私」とか言って呼んでいるものも、なにもかも全部、「別の行き方が…」みたいな不安というか期待とかの塊というか、流れ(William James風)の中にあるのです。
「鏡」の話に戻ると、まあすべてが可能性とか不可能性に感じられてしまうわけだから、当然可能・不可能どっちかでも確からしい方、何べん出会ったとしても変わりそうにない方ってのは貴重な情報としてどんどん蓄積されるわけで、それらが「鏡」ほどにはクリアな反射映を返してはくれないけれども、「ははーん、自分はこんなかんじの状況に置かれとるんやなー」ってのがまあ分かるようにはなる。成長とともに。
そんな「鏡」のような役割を果たしてくれる情報って、じゃあ一体どんなものなの??私もそれは分からない。けれども多分大元の生データってのは、絶えず動き続けているものなのだろうとは思う。つまり、私たちが成長するにつれて蓄積していっている「鏡」のような役割を果たす情報というのは、個々に独立で機能しているものではなく、そうやって一旦「鏡」のように固定させておいて、固定されたいろんな「鏡」が関連付けられて、そうやってできるネットワークでもって、動きまくっているもともとのデータを捕捉しているようなイメージ。
「誰かのせいにする」というのは、「鏡」同士関連付けられたネットワークが、動いているものを捕捉するものであるわけだから、「アクションに意味をもたせるもの」であるはず。要するに、誰かが何かをしている。とある状況下において。さらにあやふやな可能性・不可能性の流れの中で生きざるを得ない私たちにとって重要な情報があって、それが、目的とか動機とか理由。まあ単純に、目に映るもので気になるものがあれば、「ああ。ありゃ人為やな。」と思える方がより安心できる、という感じで理解しておけばよいと思います。やっぱり自然のなせる業だと思ったら、ほぼ”自由意志”なんて無理でしょ?普通。まあ”ほぼ”無理なだけだから全く確定的ではないし、事実自然科学やそれに基づいた技術開発で、ちょっとずつでも、いやもう既に飛躍的に!かな?、”人為”の領域は拡大されているのだけれど。
以上をまとめると、ともかく、あまり一つ一つの行動や言動について、その責任関係をはっきりさせようと思いすぎない方がベターではないか?ということ。何故なら、責任とかとれる”自由意志”なるものは、本来あやふや曖昧な事象をより確からしく把握するために開発されてきているものなのだから、あんまり硬直的に運用したら、いろんなデータを受け取っているのに、それらがあたかも存在しないかの如くフィルターを懸けてしまうから。そうなると私たちの外界捕捉サイクルに支障をきたす。私たちにとって最も重要なのは、まず、曖昧なものを「曖昧なもの」と呼べるようになることなのだ。そこから美的感覚(バランスがとれている方がいい、より自然だ、、とか)やら直観を駆使して、定義づけが始まる。ことばの力というのは偉大なのです。なぜならことばは「鏡」のネットワークとしては、相当再現性及び確度の高い反射映を返してくれるから。さらに言うと、ことばというのは小枝や小石などのものを媒体として使うサインと違って、より私たち自身のアクション(感じる、考えるなども含め)と密接につながったサインであるということ。つまり、ことばとは比喩ではなく、実際に私たちの写し鏡なのです。断言してしまっていいのか?ちょっと疑問はありますが。。。まあそうでもなければ、超複雑な文字なんて開発してないだろうと。ということは、書き言葉というのは案外危ないものでもある。流せるものも流しにくくなるしね。。。私たちってほんと。「誰かのせいに」するもんだから。。。そのあたりは道徳、倫理、合理性とか科学とかにも関わるので、また改めて別のノートを書かなければならないですね。がんばります。