「知る」という行動に分類はあるか?
違う問い方をすると、「知る」という行動を解剖よろしくパーツに分解して分析するということができるのだろうか?
私の理解では、「知る」という行動は人間が生きて存在していることと同義なので、分解のしようがない。よしんばキレイに分解できたと感じられたとしてもそれは幻。そこに真実はない。
とはいっても絶対に分解なんてするなとかしたって意味なんてないとは言わない。そうすることで結局のところ分解なんて幻想やねんな、ということが得心できるってこともあるので。
解剖に喩えたとおり、論理的に齟齬のないように適切に分類できるようにパーツに分解するというのはかなり高度な技術を要する。技術というものはどんどんと高度になっていって当たり前というかそこを目指すもの。技術を進歩させようという情熱や研鑽を指して私たち人間の知性の素晴らしい特質の一つであるとか、開発される技術そのもの或いはそれがもたらす様々な成果こそが私たち人間の知性の優秀さの証明なんだというように理解することもできなくはない。
だがね。
やはりそうした素晴らしい特性の源というのもそもそもは「知る」という行動にあるわけで、よって、「知る」という行動が包含しているものというのはそれはそれは無限の要素、広がり、深みがあって解剖する技術なんてものだけでは到底語り尽くせない。
「知る」というとほぼ自然に「何を?」という疑問が湧く。
パーツの分解というのもまあ概ねこの「何を?」を拠り所にしていると言ってしまっていいだろう。
私としては「何を?」はさておき、「知る」という行動自体がもつパワーについてもっともっと正当な評価がなされるような世の中を望んでいる。
どんなに呆けたように見える人間でも生きているうちはともかく知ろうとしている。そのパワーの存在を否定してしまっては教育なんてものも到底成り立たなくなってしまう。
「知る」という行動の主体は個人なのだから、「知る」という行動を他者との共同作業という風に分析するのは安易だという考え方があるらしい。とても残念なことだ。
主体などという出所の曖昧なものを当然に存在するものであるかのように扱ってそこに何の疑問も抱かない。
ほんのわずかなズレであっても、ズレたまんまを何の修正もせずに延々と続けておれば果てはとんでもない地点へと遊離してしまうことは避けられない。
生きているだけで知ろうとしているのだからそこには意識なんてものもあるのやらないのやら判然としない。ましてや主体だなんてある場合もあるけれどないことの方が圧倒的に多い。欲望やら目的意識やらをもって選択しているとか言えばそりゃあ話はカンタンにはなる。そしてカンタンなことは結構大切かもしれない。複雑過ぎて分かんないよーとダラダラ過ごすというのは、そもそもが善人たる私たちにとってはガマンできないことだしね。そうはいってもカンタンさというのはあくまでも便宜的なものであって、便宜を図っている以上、それはなんのため?ということは忘れちゃあならない。
色んな考え方はあるだろうけれど、現在声が大きい人々の議論の仕方だと、結局自分だけが生き残れればいいということを言っているに過ぎない。そんなことのために便宜を図っていてどうするのよ。善人が泣くよ。現在とは言ったけれどもここまで延々と紡がれてきた経緯というものがあるのだから、私たち人間の今のところの実力というのは、結局個人が各々よければそれでいいというところで停滞し続けているということだ。共同体だの社会だのみんなのことも面倒看たいようなフリはしているけれどもね。
図らずも作り上げてしまった現在のような高度な資源分配の仕組みにしたって、”図らずも”だなんて思っちゃいない。”図らずとも”作れちゃうぐらいすごいんだと考えられなくもないのにね。どういうわけかきっちり将来を見据えて環境に沿うように手持ちの資源・能力などなどを効率的効果的に活用し冷静客観的な分析に基づいて作ったんだと思いたいらしい。
誰でも生まれて死んでいく間に成長はするものだけれど、人間ってこの数千年、本当に知的には成長してきたと言えるのだろうか?カンタンなことばかりペラペラペラペラ喋りまくるばかりで、同時に複数の相反する意味について過不足なく吟味するなんてことも未だに十分に出来ていないようじゃ却って退行しているんじゃないのか?
ただ生きているだけで知ろうとしているということを自らの実力として過不足なく知る。知ろうとしている力を知る。私たち人間が記号や言葉を使って営んでいる知的活動というものは常にこのように自己参照的でそいつをぐるぐるぐるぐる繰り返す。その正体を知るために解剖的な方法を使うこともあるけれど、結局のところは個々人がただ生きているだけでそのようになっているという事実は忘れてはならないだろう。
ああすばらしきかな人間。
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