「気づき」
は、当たり前だけどOne-offのイベントではない。ずっと継続するもの。とびとびにでも。
「理想」を別の何かで置き換え(たつもりになっ)て、勝手にストーリー展開し始めるのはかなり厄介な問題。ストーリーは継続性があるからね。。。一旦始まれば、「終わる(ネタがさすがに尽きて詰む)」まで続く。。。かつ、ストーリーは語る(騙る)だけで、道徳的な正しさが乗る。(つまり、’ネタが尽きる’とは、さすがにこじつけでも「正しい」とは言えなくなる、ということ。)
結果として常に「現実」を無視して、「原理原則」が語られる(騙られる)ことになる。
世に通りのいい論説?(まあただの作り話なんだけども)は、比較的”余裕がある”方々が形作る、ということが如実に証明されているわけです。
特に日本のそれが私の癇に障るのは、束になって「そうやって自分らが余裕かましていることに無邪気に無頓着である」ところ。
力ある方のもんが世の中のしくみを知らんうちにでも作って行ってしまっているというのは仕方のないこと。
としても、あんまりにも無邪気に「自分らは正義の側」にいると信じている姿は”行き過ぎ”と感じる。どれぐらい無邪気かって???
「いえいえいえいえ。。。。全く。。。何のことだか。。。。こんな微力な私(たち)が、’正義’だなんて、、、そんな大そうなこと。。。滅相もございません。。。」
って平気で言ってのけられるぐらいに。(いやわりと真剣。たまにさわやかに半笑いぐらいのやつらもおる。)
「醜さ」ってのはただ「気づいている」だけでは不十分なんだね。「すまん。今はゆるしてくれ。。。」ぐらいほんまに他に選択肢はないのか?或は、「し、しまった。。。ホンマはもっと別のやり方あったんかもしれん。。けど。。。」ぐらい深い悔恨とか。突き詰めてパワー行使するぐらいにならなきゃ。。。