歴史とは何か#4:「History」の誕生③
<#3の続き>
「History」の誕生は「ヨーロッパ」の誕生
さて、『ヒストリアイ』が書かれた時代背景が見えてきたところで、今度は『ヒストリアイ』の世界観について、もう少し詳しく述べていきます。『ヒストリアイ』がヨーロッパにおける「歴史」という文化活動のはじまりだとすれば、その世界観は少なからず、のちにも影響を与えているでしょう。
『ヒストリアイ』の世界観を直接紐解く前に、「ヨーロッパ」という語について述べます。「ヨーロッパ」(Eurṓpē)の使用例として、現在発見されている記録で最も古い例は、古代ギリシアで作られた讃歌集『ホメロス風讃歌』にみられます。『ホメロス風讃歌』のうち、紀元前522年に執り行われたデロス島及びデルフォイのアポロンを讃える祭のために作られた『アポロンへの讃歌』に「ヨーロッパ」の記述があります。そこでは、「ヨーロッパ」は、エーゲ海の南海岸の地域を意味しました。ちょうどギリシア諸都市のある辺りです。地理上の概念として「ヨーロッパ」は、当初ギリシアを指す語だったのです。
▼図9 エーゲ海の地図
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Aegean_Sea_map.pngより。Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported)
「ヨーロッパ」という語の語源には、様々な説があります。古代ギリシアの神話に登場するフェニキアの王女エウローペー(Εὐρώπη)が語源だという説、当時のギリシアの言葉で「広い・幅広い」を意味する「εὐρύς」(eurus)に由来するという説などがあります。
いずれにしても、この頃の「ヨーロッパ」の語は、あくまでもギリシア諸都市の辺りを指すだけの地理的な用語でした。
その後、『ヒストリアイ』が書かれる少し前にあたるギリシア・ペルシア戦争の頃、ヘカタイオス(Ἑκαταῖος, Hekataïos)という人物が初めてヨーロッパとアジアを区分した地図を作成しました。
▼図10 復元されたヘカタイオスの世界地図
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hecataeus_world_map-en.svgより。パブリックドメイン)
そしてこの後、ヘロドトスが『ヒストリアイ』を執筆します。ヘロドトスは『ヒストリアイ』の第4巻で、世界をヨーロッパ、アジア、リビアの3つに分ける考え方を紹介します。その陸続きの境界線には、複数の川が基準とされていて、いくつかの説があることを述べています。図11は、ヘロドトスが描いた世界地図の再現です。
▼図11 復元されたヘロドトスの世界地図
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Herodotus_world_map-en.svgより。パブリックドメイン)
これを見ると、陸続きの境界はあいまいですが、海を境目にするヨーロッパとアジアの境界は明らかです。ちょうどギリシアの辺りまでがヨーロッパで、アナトリア半島以東がアジアとなります。これが歴史上、アナトリア半島を「小アジア」と呼ぶ所以です。
さて、単純な位置関係を示す地理用語として、ヨーロッパは定義されたわけですが、ヘロドトスはこれに更なる意味づけをします。これが西洋における歴史観と結びついていると私は考えます。
それこそがこれまでに述べてきたギリシア諸都市とペルシア帝国の対比、すなわち市民が自ら議論して規律を作る自由なヨーロッパと、神格化された専制君主に民が隷属するアジアという対比なのです。ヨーロッパの語が単なる地理用語としてだけ用いられるのではなく、ヨーロッパのアイデンティティが、その精神性(社会や文化)においてアジアと異なるということが強調されていくのです。
この自由と民主主義を尊ぶ成熟したヨーロッパと、絶対的支配と隷属の上に成り立つ未熟なアジアという図式は、この後もヨーロッパにおける世界観を規定していきます。
▼図12 1472年に作成された「TO図」。世界はアジア、ヨーロッパ、アフリカの3つの大陸として描かれています。
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:T_and_O_map_Guntherus_Ziner_1472.jpgより。パブリックドメイン)
『ヒストリアイ』には、アジア――当時の場合、ペルシア帝国――との対決という視点があります。ある意味で、ヨーロッパにおける歴史は、アジアとの対決の中で形成されてきたのです。
このヨーロッパに対するアジアという世界観は、他の様々な場面でも確認できます。次の絵は、17世紀後半の画家アンドレア・ポッツォによる、聖イグナティウス・デ・ロヨラ教会(Chiesa di Sant' Ignazio di Loyola, イタリア・ローマ)の天井画『聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光』です。
▼図13 『聖イグナティウス・デ・ロヨラの栄光』
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Andrea_pozzo,_gloria_di_sant%27ignazio,_1685-94,_02.jpgより。Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported)
大変荘厳な天井画で、ヨーロッパ以外の3大陸(アジア、アフリカ、アメリカ)にカトリックを布教するイエズス会宣教師たちの伝道達成を祝う絵です。図13を縦横に4分割したとき、左上にアメリカ、右上にアフリカ、右下にアジア、左下にヨーロッパが描かれています。
それぞれ各大陸を擬人化した女性が大きく描かれています。アメリカ部分には槍を持ち、おそらくバッファローに乗った先住民の女性、アフリカ部分には象牙を持ち、ワニに乗った肌の黒い女性、アジア部分にはラクダに乗った女性が描かれ、ヨーロッパ部分には、白馬に乗った女性が描かれています。各々乗っている動物の胴体のあたりに、「ASIA」など、対象の地域が刻まれています。
中央の天空には十字架を背負うイエス・キリストが描かれ、イエスを見上げる男性がイグナティウス・デ・ロヨラ(イエズス会の創始者)です。各大陸は、彼らを下(地上)から見上げる構図で、イエズス会宣教師がそれぞれの大陸の民に手を差し伸べ、天空へと導いている様子を描いています。
右下のアジアへの布教を描いた部分には、日本の歴史教育では誰もが覚えることとなる、ある人物が描かれています。アジア部分の左上隅(絵全体では中央右下)で、黒っぽい服装をして、アジアの民を見下ろす人がいます。彼は、アジアへの宣教に従事したフランシスコ・ザビエルです。
さて、ザビエルは日本にキリスト教をもたらした偉人として理解され、日本の歴史教科書ではそのように教えられます。イエズス会についても、そこで短く触れられる程度の扱いです。
ここで、イエズス会と日本についてもう少し詳しく見てみましょう。日本で初めてキリシタン大名となった大村純忠という大名から話を進めます。大村は、1562年に自領にある横瀬浦をイエズス会に提供し、仏教徒の居住を禁じたり、イエズス会商人の税金を10年間免除するなどの優遇策を図りました。さらに、1580年には長崎をイエズス会専用の港にすることを約束します。それらの目的は南蛮船がもたらす貿易利益を独占することと考えられます。
この時、イエズス会は、キリスト教に改宗しない各地の者を捕らえ、奴隷として各地に売りさばいていたのです。イエズス会によって海外に連れ去られた者の数は、数千人とも数万人とも言われています。大村は、イエズス会の奴隷貿易に組することで、貿易の利益を得ようとしたのです。またイエズス会に対して、敬虔なキリスト教徒であることをアピールする目的があったのか、領内にあった寺社や先祖の墓を破壊したり、領内の僧侶や神官、改宗しない領民を殺害したりしました。
この後、豊臣秀吉が九州を平定すると、住民に対するキリスト教への強制的な改宗、神社仏閣の破壊、イエズス会による住民の拉致と奴隷貿易が発覚します。秀吉はイエズス会準管区長ガスパール・コエリョを問いただし、博多においてバテレン追放令を発布することとなります。1587年には長崎を直轄領とし、防衛に努めました。その後、江戸幕府は禁教令を発し、宣教師と協力者を処刑・追放処分とします。
こうした背景を無視して、日本の歴史教育では、「江戸幕府は、平等を推進するキリスト教の教えが、封建的支配に都合が悪いから、キリスト教徒を弾圧した」というように教えるのです。これはまさしく、当時のイエズス会を擁護するものではないでしょうか。間接的にヨーロッパ中心史観がそこにも影響しているといえます。イエズス会は、奴隷貿易を行う組織であって、結果としてスペインやポルトガルの侵略を推進したと解釈できるにもかかわらず、そのことは教えません。
ヨーロッパの言い分としては、イエズス会は、野蛮なアジア、アメリカ、アフリカに、キリスト教という“正しい教え”を伝えるありがたい宣教師なのです。ヨーロッパがこの頃推進した“旧大陸”への侵出は、彼らにとって正しい教えであるキリスト教を伝える正しい行いだったのです。
ここに、「正しい価値観は勝利すべきだ」というヘロドトス的・『ヒストリアイ』的歴史観が見えてくるのではないでしょうか。
さらに、次の絵は、1872年に描かれた『アメリカの進歩』という絵画です。
▼図14 『アメリカの進歩』(1872年)
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:American_Progress_(John_Gast_painting).jpgより。パブリックドメイン)
これは、アメリカ合衆国国民が西部開拓を進めていく様子を描いたもので、中央の女神が開拓を進める国民の象徴です。女神の右手には書物と電信線が抱えられています。追われて逃げ惑う左側の人々は、先住民のネイティブアメリカンでしょう。右側には、開拓されていく農地や、1869年に開通した大陸横断鉄道が見えます。合衆国国民が「文明化」の名の下に、先住民を追いやり、征服を進める様子が克明に描かれています。
今見れば、おぞましい絵ですが、当時の合衆国では、西部を侵略し、その最中に先住民を殺戮することが「マニフェスト・デスティニー(明白なる使命, Manifest Destiny)」として、正当化されていました。当時は、風刺の目的もなく、ごく自然にこうした絵が描かれたのです。
この頃の合衆国では、「文明は、古代ギリシアからローマ、イギリス、そしてアメリカ大陸へと西漸していく」という「文明の西漸説」が唱えられていました。
1890年に、先住民のスー族に対する「ウーンデッド・ニーの虐殺」が起こると、「インディアンの掃討が完了した」として、合衆国政府は、「フロンティア」(開拓前線と言われるが、内実は先住民掃討の最前線)の消滅を宣言しました。これ以降も、合衆国は「文明の西漸説」を信奉し、ハワイ諸島の併合やフィリピンの植民地化といった帝国主義政策を進めることとなります。
帝国主義を正当化する「文明の西漸説」も、「先進的な文明を持つヨーロッパから、野蛮で後進的な他世界へと、ありがたい近代化を伝えてやる」という世界観から来たものです。
これらは、まさに、正しい価値観は勝利を収めるべきという発想から来た解釈なのではないでしょうか。我々ギリシア諸都市は、民主主義という正しい体制を採り、後進的で野蛮な専制君主制を採るペルシア帝国に打ち勝った。そうしたヘロドトス的・『ヒストリアイ』的歴史観が、やはり見えてくるのです。
「History」の誕生と同時に生まれた「ヨーロッパ」のアイデンティティが、ヨーロッパで語られる歴史には横たわっているのです。
<#5に続く>
【ヘッダー画像】
ゴヤ(1800年頃)『時間・真理・歴史』(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alegoria_constitucion_1812-1-.jpgより。パブリックドメイン)