歴史とは何か#5:「History」の誕生④
<#4の続き>
「ペルシア戦争」という呼称は公正か?
ところで、高校世界史の教科書を見ると、これらの戦乱の事を必ず「ペルシア戦争」と呼んでいます。本稿ではギリシア・ペルシア戦争と記していますが、「ペルシア戦争」という呼び方は公正といえるでしょうか。
ペルシア帝国からすれば、ペルシアがかかわった戦乱はすべて「ペルシア戦争」です。ここで、この戦乱のみを指して「ペルシア戦争」と呼ぶのは、他でもなくギリシア諸都市がペルシアと衝突したことが由来です。つまり、ギリシア諸都市から見たときには、ペルシアとの戦争は、この戦乱のみであり、ギリシア諸都市からすれば「ペルシア戦争」で相応しいのです。しかし、ペルシアからすれば相応しくありません。この呼び方自体が、ギリシア諸都市、すなわちヨーロッパを中心に観た史観と言えます。
「ペルシア戦争」という呼び方そのものがヨーロッパ中心史観に基づいたものであり、まさしくアジアとの対決というヘロドトス的・『ヒストリアイ』的史観が、実はそこに反映されているのです。したがって本稿では、ペルシア戦争と呼ばずに「ギリシア・ペルシア戦争」と両方の陣営の名を含めて呼んでいます。
同様のケースは、他にも見られます。例えば、日本では是正され、もはや使われない語句となっていますが、ヨーロッパによるアメリカ大陸の発見を「地理上の発見」と呼んでいたことがありました。西洋では、今もこの時期――いわゆる“大航海時代”――のことを「Age of Discovery」と呼びます。これもまたヨーロッパ中心史観です。アメリカ大陸の先住民からしてみれば、「発見」ではなく、それは「侵略」です。前からそこに大陸はあったのです。
もう一つ例を挙げます。マゼラン一行は、歴史上はじめて、世界一周を達成したとして教科書にも記されている偉人達です。マゼラン一行は、現在のフィリピンにたどり着いた際、銃や大砲といった武器で威嚇して、住民にスペイン王への従属やキリスト教への改宗を要求しました。多くの部族長が次々と服従しましたが、その中で、ラプ・ラプという部族長の一人がマゼラン一行の要求を拒否しました。
1521年4月27日、マゼラン一行とラプ・ラプら現地住民は、ついに戦闘に突入します(マクタン島の戦い)。そこで、ラプ・ラプはなんとマゼランを討ち、一行を退却させることに成功したのです。今もラプ・ラプは、フィリピンで国民の英雄として尊敬されています。マクタン島の大部分を占める町は、ラプ・ラプ市と名付けられ、島にはラプ・ラプの巨大な像も建てられています。
碑文には、次のことが書かれています。
Here, on 27 April 1521, Lapulapu and his men repulsed the Spanish invaders, killing their leader, Ferdinand Magellan. Thus, Lapulapu became the first Filipino to have repelled European Aggression.(筆者訳: ここでは、1521年4月27日、ラプ・ラプとその部下がスペインの侵略者を撃退し、指導者のフェルディナンド・マゼランを殺害しました。そして、ラプ・ラプはヨーロッパの侵略を撃退した最初のフィリピン人になりました。)
▼図15 ラプ・ラプの碑文
(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:MactanShrineFront.jpgより。Creative Commons Attribution-Share Alike 3.0 Unported)
フィリピンの人々にとって、マゼランは、侵略者なのです。しかし今も日本の世界史教科書は、マゼランを偉大なる航海家としての側面のみで描いています。これには問題があると私は思います。ヘロドトス的・『ヒストリアイ』的歴史観が連綿と続き、なぜか日本の世界史教科書、ないし歴史教育はそれに追随しているのです。
ヨーロッパにおける「歴史」すなわち、「History」の誕生は、ヨーロッパとアジアという世界観とつながっています。さらに、現在の日本の世界史教科書は、今なおそのヨーロッパ中心史観に従っています。
歴史とは物語である
さて、最後に「History」と同じ「ヒストリア」(ἱστορία, historia)を語源に持つもう一つの言葉を紹介して、本節を終えます。それは、「Story」すなわち「物語」です。
フランス語の「histoire」、ドイツ語の「Geschichte」、イタリア語の「storia」、スペイン語の「historia」は、いずれも英語の「History」と同様に、ヘロドトスの『ヒストリアイ』に由来した「歴史」を意味する語です。どれも「物語」という意味も併せ持っています。
前節で述べたように、歴史とはあくまでも誰かの解釈です。ヘロドトスがペルシア戦争におけるギリシア諸都市の“勝利”を民主制によるものだと考えたのも、ヘロドトスの解釈です。
そして、その解釈に沿って述べられた歴史とは、いわば物語なのです。誰かがそこに因果関係を見出し、著述したにすぎず、極めて主観的な物語です。
ちなみに、現在では「事実」を意味する「Fact」の語源は、ラテン語の「facere」の過去形「factum」で、意味は「作られた」です。「工場」を「Factory」と呼ぶのと語源は同じです。これもまた、事実とは作られたものであるという、ある種の本質を突いていると私は思います。
ここまで、「『History』の誕生」と題して、ヨーロッパにおける歴史という概念の誕生を見てきました。この後は、東洋における歴史の誕生として、中国における「歴史」の誕生を読み解いていきます。
(#6に続く)
【ヘッダー画像】
ゴヤ(1800年頃)『時間・真理・歴史』(https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Alegoria_constitucion_1812-1-.jpgより。パブリックドメイン)