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独善とベストのはざまで


最近、自分がかかえているゆらぎは、「独善」と「ベスト」、この2つのせめぎあいのようだ。

新型コロナウィルス感染症が社会状況に大きく影響を及ぼすようになってから、人の本質がとても明白に見えてくる・現れるようになったと感じる。
それは他人のことを言うのではなく、自分のことでもである。
他人、あるいは自分の本性が、はっきりと浮き彫りになるような感覚を味わう瞬間がある。

「わたし」が考える正しい対応策、ルール――それに付随する根拠とか倫理感とか、“わたしが考える”「正義たち」が、 強くあらわれていて、驚くほど、むき出しになって攻めゆく姿のように見える。

そんなことはこれまでもしょっちゅうあったことかもしれない。
でも、これほどに生々しく打ち出されるものだったのだろうか……?
もしかしたら、変化したのは自分の感じ方の違いなのかもしれないけれど、
なぜ今は、以前よりずっと強くあらわになっていると感じるのだろうか。
押し付けようとしている、というより、なんだかムキになっているような気にさえなる。

わたしの考える正しさ。

ちなみに、「わたし」の部分には他のだれかの名前も入れられる――ので、入れてしまうことがある。
生々しく攻めてこられている感覚を味わう。

そして――傷つくこともある。
だから、わたしがだれかを傷つけていることもあるに違いない、と思う。


「なぜベストを尽くさないのか」――。

むかしのドラマでよく使われて有名になったせりふでもある。

自分でもベストを尽くすことを心掛けているものの、それが、「自分はがんばっている」というだけの主張になる危険性も時折感じてしまう。
「がんばっている自分」を見てほしい・ほめてほしいと思っている人も少なくない。それ自体は単なる承認欲求かもしれない。
でも、「わたしはがんばったよ」というベストを尽くした感は、だれにとっての・何のための「ベスト」を尽くしたのかが見失われていないか、客観的な視点が必要だ。

つまり――今まであまり意識してこなかったのが不思議だが、自分のしてきたことは、実は「ベスト」の名を借りた「独善」だったのではないか、と思う。
今このような社会状況にあって、とくに。






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