考える
「辞表」とか「退職願」とかいうのを書いたことがないのだが、
もしも今、自分が書くとしたら、などということを想像した。
世間一般でたいていフォーマットは決まっている。
書くことに困ることもない。
でも、もしも、わたしらしい退職願を書くとしたら?
退職願に”わたしらしさ”なんてものは求められていない、とわかってはいるのだが。
書式を出したときにか、出す前にか、いずれにしても”わたしなりの理由”を語ることになるのだから、願自体はただの形式だ。
ただ、今は事前に相談するでもなく、突然出してやろうなんていう思いがあるでもなく、ふとした思い付きで「退職願」のことを考えている。
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ただ、今、わたしは失望しているのに違いない。
仕事に――と言っていいのかどうか?
仕事そのものに苦しさや直接的な失望を覚えているわけではない。
つまり、粛々と実務に集中することができない環境にあるとか、だれかに虐げられているとか、そういうことのせいなどではない。
でも、なぜだか苦しい。
息苦しい。
それは、単純に「窮屈」だからだ。
仕事と仕事以外の時間の割合、
仕事の中での苛立ち、
仕事以外の時間をめいっぱい使えない焦燥感、
そういったものに「窮屈」を感じている。
窮屈になっていることに失望。
窮屈にさせている自分自身に失望。
きっとそういうことなんだろう。
そこで、仕事を引き算したら、と思いついて考えてみるわけなのだ。
しかし果たして、そこで「退職願」を書いて、自分は時間を大切にできるのだろうか?
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今まで一度も書いたことのないものに思いを馳せてみる。
オリジナリティあふれる「退職願」、なんて荒唐無稽なことを。
それはそれで、考えるヒントになるのだ。
自分を見つめる、自分の小さな闇を考えるヒントにね。
暗がりの中に、開放(解放)の糸口が見いだせるかのように、
ちょっとした期待をこめて――考える。