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1~2世紀 | 環濠集落はJR浜松工場とせめぎ合う@伊場遺跡


ほとんど無名な重要史跡

誰もが知っている蜆塚遺跡。そのすぐ近くにありながら、伊場遺跡は一般にはその存在がほとんど知られていない。一帯は伊場遺跡公園として整備されているが、筆者自身、地元に近い場所なのにその存在を知ったのはつい最近だ。そもそも、ここにたどり着くのが難しく、よほど注意しないと通り過ぎてしまう場所だ。

ところが、この伊場遺跡を中心にした伊場遺跡群は、今回取り上げる弥生時代の史跡に加え、県有形文化財に指定された古墳時代の金銀装円頭大刀きんぎんそうえんとうたち@鳥居松遺跡、律令時代の公文書ともいえる木簡もっかんなど、重要な出土品が多数発見されている。浜松の古代史のなかでも最重要の場所といえるだろう。1974年には、その保存を巡って伊場遺跡訴訟も起き、最高裁まで持ち込まれている。

ちなみにこの遺跡が発見されたのは、戦後すぐの1949年。米軍の艦砲射撃によってできた穴から、中学生が弥生土器を見つけたのがけっかけ。隣接するJR東海浜松工場は、戦時中は鉄道省浜松工機部であり、米軍の標的になった。2016年にも直径16インチ(41cm!)の砲弾が工場内で発見されている。

中学生が発見した伊場遺跡の弥生土器

弥生時代のはじまりとクニのおこり

弥生時代の名前にもなっている弥生土器。弥生はその土器が最初に発見された東京文京区の地名である。縄文土器と比べると薄く、高温で焼かれ赤褐色なのが特徴。

土器に加えて稲作も弥生時代の特徴で、静岡市の登呂遺跡(高床式倉庫や石包丁)は教科書でもおなじみ。弥生時代の始まりは、以前は紀元前5世紀ごろとされていた。しかし、C14(放射性炭素年代測定)で紀元前10世紀ごろのものと判明した"コメの付いた弥生土器"が見つかり、ここが起点といわれている。

公園の奥に高床式倉庫が見えるが、これは奈良~平安時代の掘立柱の復元建物

稲作による食糧生産革命は、人口の増加とともに身分や労働の概念も生み出した。『浜松の歴史(浜松市博物館、2008)』では、これを「日本人が初めてサラリーマン化した」と表現している。富は蓄積されるようになり、奪い合う対象にもなった。狩りから稲作へ、ムラからクニへの変化である。

1世紀ごろの前漢で編纂された漢書地理志かんじょちりしで、初めて当時の日本であるに関する記述があり、100あまりのクニが存在していたと記されている。さらに後漢書東夷伝ごかんじょとういでんでは、57年に委奴国王わのなこくおうが後漢の光武帝から金印を送られたこと、107年に倭国王師升わこくおうすいしょうらが、生口(せいこう=奴隷)160人を後漢に献上したことが記載されている。

三重の環濠と出土した木製鎧

公園に入るとすぐに見えるのが三重の環濠かんごうだ。環濠とはいわゆる"お堀"のことで、外敵から自分たちを守るためのものである。全国的に有名な環濠集落は、佐賀県の吉野ケ里遺跡。伊場では12~13mに及ぶ環濠が120m×90mの敷地を囲むように張り巡らされていた。

その環濠からは弥生土器や銅鐸が見つかっているが、最も目をひくのが木製の鎧だ。西日本の同時期の遺跡でも木製の鎧は発見されているが、伊場では水分を含んだ粘土質なところに埋まっていたため保存状態がよかった。さらに他の鎧と比べて精巧な作りをしており、戦闘に使用するものでなく、儀式用だといわれている。

浜松市博物館に展示されている複製品

1kmのウォーキングコースとなるほど発見デー

伊場遺跡公園は東西に細長いため、1kmのウォーキングコースができている。この日も散歩やジョギングをしている人達がいた。場所が分かりにくいため、広いわりに人はほとんどいない。

そんなこの場所が、年に一度にぎやかになる時がある。JR東海浜松工場主催の「新幹線なるほど発見デー」だ。当日の朝からシャトルバスが出る浜松駅周辺は尋常でない混み具合。この日は工場へ続く行列発生したりと、あふれでる人に三重の環濠も成す術はない。

場所

参考資料

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