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2世紀ごろ | 銅鐸の谷のレプリカ@滝峯才四郎谷遺跡
浜松は銅鐸出土数日本一
子供のころ、エジプトの「王家の谷」という響きに憧れたが、浜松には「銅鐸の谷」と呼ばれている場所がある。聖隷三方原病院とテクノランド細江に挟まれた約2.5kmに及ぶ浸食谷がそこで、近づいてみると深い森と窪んだ地形が見てとれる。
あまり知られていないが、浜松は20点以上の銅鐸が発見されており、市町村別出土数で日本一となっている。特にこの銅鐸の谷(滝峰地区)を中心に、旧引佐郡細江町で半数近くが発見されている。
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滝峯才四郎谷は銅鐸の谷(滝峰の谷)を構成する支谷の一つ。才四郎という人名のような名称だが、才四郎さんに関わる情報は見つけられなかった。ここで銅鐸を発見したのは、在野の研究家である羽間義夫さん。大阪を拠点に自前の金属探知機とバイクで全国を回っていた猛者で、テクノランド細江の造成真っ只中の1989年末に発見した。
浜松の在野研究家である大野勝美さんは、その著書で「しまった!先を越された」と正直な感想を述べている一方、現地説明会に集まったのが50名程度と少なかったことを嘆いている。出土数や型式の豊富さから、全国区の遺跡になる実力あるにもかかわらず、工業団地の隅に追いやられ、小さな公園に留まっているのが実情だ。
金属器の伝来
稲作と並び弥生時代の特徴としてあげられるのが、金属器の使用である。世界史的には青銅器→鉄器の順番であるが、金属器の伝来が遅れた日本では、紀元前400年頃から青銅器と鉄器がほぼ同時に伝わっている。
青銅は錫と銅の合金。鉄が農具や武器として使われたのに対し、青銅は祭器として使われた。銅剣や槍形の銅矛といった武器型祭器は主に九州・四国地方で、銅鐸は近畿・東海地方を中心に出土している。最も有名な遺跡は、島根県の荒神谷遺跡で、358本の銅剣と16本の銅矛、6個の銅鐸が見つかっている。
銅鐸は弥生時代前期から後期にかけて巨大化し、音を鳴らすための銅鐸から見るための銅鐸に変化していった。浜松で出土している銅鐸はサイズが大きな弥生時代後期のものが多い。加えて天竜川から東は銅鐸の出土数が急激に減るため、浜松が青銅祭器をシンボルとする勢力の東端だったと考える説もある。
三遠式銅鐸と近畿式銅鐸
銅鐸は主に三遠式と近畿式があり、浜松では両方とも発掘されている。三遠はネオフェニックスでお馴染み?の三河(愛知県東部)遠州(静岡県西部)の意味。東海地方以外でも長野や北陸で出土している。尾張で製造された説が有力。一方近畿式は和歌山、瀬戸内、四国でも出土している。近畿式は銅鐸の谷を含め浜名湖周辺で発掘されているが、天竜川周辺では見つかっていない。
両者の違いは外観でわかる。三遠式は頭の部分(鈕に飾り耳が無いが、近畿式には有る。三遠式は横帯の中央線が銅鐸のはじ(鰭)まで伸びている、などが主な違い。以前、専門家の講座に参加した際、上記以外の細かい話が止まらず、予定時間のほとんどを使ってしまっていた。
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過酷な滝峯才四郎谷
滝峯才四郎谷遺跡は「どうたく公園」の敷地内にあるのだが、まず次の写真を見てほしい。
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駐車場への入口がとにかく狭く、気づかず通り過ぎてしまう。左折して入場するには反対車線に大きく膨らまないと厳しい。アルヴェル系ミニバンだと本当にギリギリ通れるかの狭さ。そして駐車場自体も狭い。ここに停まる車が相当珍しいのか、横を通り過ぎたパトカーが引き返してきて、ジッとこちらを見てきた。
そして、公園と言いながら、可動範囲は実質10m2も無いくらい。階段を上って、発掘時を再現したレプリカあって終わり、以上、の狭さ。
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写真を撮り終えたら目の前に巨大な毛虫が、、この両横に肘をのせて上の写真を撮っていた、、、。
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そして、その狭い敷地に謎の門と空間あり。「見学の前に一声おかけ下さい。」と書いてあるが、どう見ても誰もいない。
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そして立ち込める湿気と強烈な動物の匂いに完全に戦意喪失。谷の反対側にある瀧峯不動尊に立ち寄る予定も取りやめて、この地を後にしたのだった。
p.s.
後で調べると動物の匂いの正体はすぐ近くにある三和畜産の豚舎だった。とんきいのバイキングは大好き。
さらにp.s.
9月後半になるとテレビや新聞で銅鐸公園を目にする機会があった。公園内がシラタマホシクサという絶滅危惧種の生息地とのこと。東海地方の限られた湿地でしか咲かない白いコンペイトウのような花が特徴。筆者が訪問したのは初夏で、全くその気配も場所も感じられなかった。人が来ないこの地でいつまでも咲いていることを願う。
姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館
ということで、どうたく公園こと滝峯才四郎谷遺跡はよっぽどな方以外にはオススメできる場所ではなかった。手っ取り早く銅鐸を見たい知りたい人は、気賀にある【姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館】がオススメ。週末でも安定の無観客で、怖いほどその世界に浸れる。
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全国で500個以上出土した銅鐸も、弥生時代の終わりとともに、意図的に埋められ、忽然とその姿を消してしまう。その時何が起きたのか、想像しながら鑑賞してみてはどうだろうか。
場所
参考資料
浜松市博物館『浜松市の銅鐸』(2007)
浜松市博物館『浜松市博物館館報Ⅰ』(1989)
気まぐれ日記『シラタマホシクサ(銅鐸公園)』