丸4年を3,000文字で振り返る。いなフリビフォー&アフター
僕が田舎フリーランス養成講座(正確には『半農半フリーランス養成講座』)を受講したのは2017年10月。千葉県のいすみ市で丸1ヶ月、6人の仲間、そして講師・メンターの皆さんと一緒に過ごしました。
僕にとってはまさに「人生の転換点」となったいなフリ。
今回は「#いなフリアフター」企画に乗っかり、これまでの歩みを振り返らせていただきます。ちょっと長くなってしまい恐縮ですが、気になるところだけ流し読みしてください〜!
前職はパチンコ店の店長。単身赴任をきっかけにフリーランスの道へ
▲パチンコ店の店長時代
僕は新卒で大手パチンコチェーン店に就職。ホールスタッフからスタートして、副店長そして店長へと順調に昇進します。勤めた期間は約12年。信頼できる上司や同僚、慕ってくれる部下もたくさんいました。
転機は単身赴任とともに訪れます。
以前から仕事や暮らし方に対して何となく違和感を感じていたのですが、それが単身赴任を経験したことで一気に表面化しました。
赴任先のワンルームで自分が感じていた感情としては「ヤバいことに気づいてしまった(滝汗)」でした。
今の働き方を続けていても、自分が望む幸せからは遠ざかることが分かってしまったのです。
でも新卒からパチンコ業界でしか働いたことのない自分に一体何ができるのか。会社の外でやっていけるだけのスキルも実績も自信も何もありませんでした。
「変わらなくては」「でも今さらどう変われというのか」
まるでアクセルとブレーキを同時に踏み続けている状態。
そんな状態で1ヶ月が経過した頃、心身的にも限界を感じ、妻に電話して退職を考えていることを打ち明けます。
僕「あのさ…仕事やめようと思うんだけど…」
妻「やめてどうするの?」
僕「うん…それはまだ決まってないんだけど…田舎に住んで…家族みんなで暮らせたらいいなというか…」
妻「楽しそうじゃん!やめちゃえやめちゃえ!」
僕「え、、、」
妻はノータイムで退職に賛成。
無理して僕に合わせてくれているのかなと思い、後日あらためて確認すると「私は前からあなたは自分で何かを起こす人だと思っていた。だからとても良い決断だと思う」とのこと。
今考えてもほんとヤバいすごい妻だなと思うのですが、当時の自分は正直「そんなこと言われてもまったく自信ありません」状態で「それは身内バイアスでしょ。過大評価し過ぎワロタピーポー」という感じでした。妻よ申し訳ない…(土下座)
でも「やはり今のまま働くことは違う」ということだけはハッキリしていたので、無謀にも先のことは決めないまま退職します。
『半農半フリーランス養成講座』を受講することに
さてこれからどうしよう…と悩んでいたところ、スマホを眺めていると『半農半フリーランス養成講座』という文字が目に入ってきました。
実は以前からSNSなどを通じて、いなフリのことは知っていました。
良さげな講座と思ってはいたのですが、そのときは会社員だったので自分が参加するだなんて考えてもいませんでした。
でも仕事をやめることが決まり、田舎で暮らすことを考えると
・地元の企業に転職する
・オンラインでできる仕事をする
の2択くらいしか思い浮かばないんですよね。
当時僕は36歳になっていて、いきなり異業種への転職もハードルが高い状況。転職できたとしても、条件は大きく下がるでしょう。
それならいっそのことWeb系フリーランスを目指してみるのも良いのでは?
失敗前提で一度くらいチャレンジしてみてもいいのでは?
そんなことを考えていたとき、講座の情報が目に入ってきたのです。そしてちょうど僕は「半農半X」というライフスタイルに憧れを持っていました。
半農半Xとは
農的な暮らしを取り入れたライフスタイルのこと。自分や家族が食べる分くらいの食料は小さな自給農でまかない、残りの時間は自分のやりたいことやミッションに費やすという生き方。
そんな偶然も重なり、僕は俄然この講座に興味を持ちます。
とはいえ、講座に参加するとなると20万円近くの出費&1ヶ月家を空けることになります。小さい子どもが3人いるなか、大きな出費と1ヶ月家を空けるのはかなり忍びない。でもひとまず、ダメもとで妻の意見を聞いてみることにしました。
僕「この講座気になるんだけどどう思う?1ヶ月千葉で合宿するみたいなんだけど…」
(渡したスマホをざっと眺める妻)
妻「あなたはこの講座を受けるべきだと思う」
僕「…はい」
神(妻)の託宣に従い、その場ですぐに講座へ申し込みました。
▲初Skypeでの事前面談。表情から分かる通りWebリテラシーはほぼ皆無
面談してくれたのは代表の山口さん(池ちゃん)で、素朴で誠実な印象は当時から変わらず。軽くパチンコトークで盛り上がったのを覚えています(笑)
こんな感じで僕のいなフリ参加は決まりました。
仕事の引き継ぎを9月に終え、いなフリは10月1日からスタート。僕が仕事をやめた後の、本当に最初の一歩目がいなフリだったのです。
いなフリを受講してから今に至るまで
▲いなフリ参加当日。会社で送別品としてもらった緑のポロシャツを着ていった
いなフリ初日、電車に乗っていすみ市に向かいます。メンバーとはオンライングループで事前に軽く自己紹介を済ませていて「みんな若いのに人生ちゃんと考えていてすごいな〜」と早くも自信を失いかけていました(笑)
いすみに到着するとまずは自己紹介をして、みんなでランチへ。
僕のメンターはぼりさんという元板前フリーランスで、刈り上げ&ちょんまげ&便所サンダルという強烈なインパクトでした。
▲ランチ会場で隠し撮りしたぼりさん。妻に「ヤバい人いた!」とLINEで報告した
『半農半フリーランス養成講座』が通常のいなフリと違うのは、午後の時間帯に農体験が入っているところです。
▲農機具の使い方や野菜の収穫など色々な体験をさせてもらった
いすみ市にはブラウンズフィールドという場所があります。
訪れてみると、そこには僕が目指したい暮らしが理想的な形で実現されていて「こういうライフスタイルに近づきたい」と思いました。
▲ブラウンズフィールドでは畑や田んぼを自分たちで管理し、自給自足に近い形で暮らしている
▲見るからに体に良さそうなオーガーニックフード
僕にとって、いなフリにおける目標は大きく2つありました。
1. これからの働き方、暮らし方の軸を定めること
2. オンラインで稼げるようになること
1つ目に関しては1ヶ月の合宿を通してかなりクリアになったと思います。
しかし、2つ目に関してはなかなか成果を出せませんでした。方向性を決めきれないまま、なかなか具体的な行動に移せなかったのが理由です。
いなフリでは日報を毎日書きます。当初目標としていた月5万円に対して、結果的に僕は5,000円しか稼げませんでした。
▲10月23日の日報。目標金額を5万円から1万円に下げた
良くも悪くも自分はマイペースなんですよね…。
しかしメンターのぼりさんは僕の考え方を尊重して、答えを出すのを黙ってじっと待っていてくれました。
受講後、不安定な駆け出し期間を走り切ることができたのは、このじっくり考える時間があったからだと思います。
そしていなフリ最終日。最終日はこれからの事業計画を1人ずつ発表します。
↓こちら初公開する僕の事業計画です(笑)
今自分で見ると突っ込みどころがたくさんあるのですが、3年スパンで見ると、おおむね当初描いた計画以上のものを実現できていることに驚きます。
↓ちなみにこちらは僕がフリーランス初期(2017年〜2019年)に記録していたライティングの収入推移表です。
月収が20万円を超えたあたりで、当時のやり方や方向性に限界を感じていたのがグラフから読み取れます。
その後は一旦、目先の数値目標を捨て、内省期間に入ります。
「今までの取り組みから見えてきたものは?」
「うまくいっているものとそうでないものの差は?」
「これから自分は何を目指すべき?」
この期間を経て、ゲストハウスを開業するなど、新たなフェーズに進むことができました。
その後もさまざまな出会いを通じて仕事は増えていき、現在はライター・ゲストハウス以外にも幅広く仕事を展開。収入も会社員時代を上回るようになりました。
▲初期のライター比率100%が今は20%に。ポートフォリオは毎年大きく変化している
そしていなフリ受講から丸4年が経過し、僕は40歳を迎えました。
ここまで、この4年間をざっと3,000文字でまとめてみました。
「めちゃくちゃ順調でしたね!」という感想を持たれる方も多いと思うのですが、実際のところは毎日不安や自己嫌悪と戦いながら、自分を鼓舞しながらごまかしごまかしなんとかやってきたというのが現状です。
ここまでの道のりは運に恵まれた要素も多く、再現性は低いので正直あまり参考にはならないと思います。
しかし、すべての起点になっているのはいなフリで過ごしたあの1ヶ月。
そこで学び経験したこと、同期や講師・メンターとの出会い、それらが波紋となって今に続いています。
体温を通わせる1ヶ月。人と人のつながりはずっと続く
いなフリのもっとも大きな価値、それは「人とのつながり」です。
いなフリは1ヶ月の合宿スタイルなので、そもそも申込段階のハードルがめちゃ高いです。そのハードルを越えたメンバーが集まるので、必然的に本気の人たちが集い、濃い関係性が生まれます。
加えて講師・メンターの多くは、現役フリーランスおよび過去のいなフリ受講生です。自分が少し前に経験した苦しみや悩みが手にとるようにわかる。だからこそ必要なサポートが提供できるし、伝え方も自然と熱を帯びていきます。
それはある意味では講座という枠組みを越えたものです。
人と人との真剣なやり取り、体温の通ったやり取りがそこにはあります。
そしてそこで生まれたつながりは、いなフリ卒業後も消えることはありません。
つながりは今後もまだまだ生まれていくはず。
その輪が広がっていくよう、僕も微力ながらお手伝いさせていただければと思っています。
以上、僕のいなフリアフターでした!