【教育のあり方】 本『教育は変えられる』山口裕也(2021)を読んで
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山口氏との出会い(読み飛ばし可)
山口裕也さんは,以前から知っていました。
それは,私が今から12年前の東京学芸大学の学部生だったころに山口氏の授業を数学科として受講していました。そのときは教育行政や学習指導要領などの教育関連の法について学んだ記憶があります。
山口氏は杉並区の研究員をされている方で,杉並という地は,私の祖父母が住んでいた土地であり,私も5才〜7才まで住んだこともある馴染み深い場所だったこともあり,親近感を覚えた印象があります。
ついでに言うと,杉並は大学院を卒業して国立教育政策研究所に勤務していたときに住んでおり,婚姻届を提出した場所でもあります。杉並の教育に関わったことは無いですが,ゆうゆうハウスという大人でも利用できる自習室が区で運営されており,よく利用しました。みんな勉強するためにいるので,受験生などが頑張っている姿を見てやる気をもらった覚えがあります。
そして山口裕也氏は苫野一徳氏と親交があり,この本を知ったのも苫野さんのTwitterでした。『教育は変えられる』というタイトルに惹かれて読んでみました。
現在の教育の問題点
習熟度別授業や特別支援教育などは,基本的には「皆同じ」ということをゴールとして進めてきた教育政策です。これについて,山口氏は以下のように述べています。
みなと同じように「できない」ばかりへの着目は、習熟度別授業や特別支援学級を始め教育機会を外に向かって拡大し、子供たちの学びや学校生活を同質性の高い集団ばかりで組織するものにします。時に分け隔てること自体が目的化し、「学習者一人ひとりの視座に立って教育機会をグラデーションのように保障する」「共に生きる世界参加する力を育む」という目指すべき目標が見失われていきます。
その結果、どんなことが起こるでしょう。本来単に「従順」であるに過ぎない「指示に従い積極的に活動する」ことが「主体的」とみなされ、「自ら行動起こす」ことこそが真の主体性である事は見失われてしまいます。共同もまた同質性の高い集団内で指示され受動的に行うだけの活動になり、「自ら差異を超え、多様で異質な他者と共に生き」る真の多様包摂性も育ちようがなくなります。
『教育は変えられる』p.100
同質性の高い集団ということが極まって表出したのがいじめであり,この同質性の高い集団をゴールとする以上,子どもたちは窮屈な生活を余儀なくされてしまうでしょう。
また,主体性というものの評価が,先生に都合の良い主体性となり,「指示に従い積極的に活動する」ことが「主体的」とみなされる。これは,今後さらに強まると思います。というのは,今回の学習指導要領の改訂のポイントとして「学びに向かう力」というものを挙げられていますが,以上の同質性の高まりということをゴールとする以上,本当の主体性というものと逆行しています。このギャップを埋めるために,ある人は従順になったり,ある人はそのストレスを別の形で吐き出してしまうということになってしまうのでは無いでしょうか。
学びの構造転換
山口氏は,この問題を解決するために,「皆違う」ということゴールとする前提のもと,学びの構造転換ということをキーワードに挙げています。学びの構造転換について,
要点は、再び「逆転」と言うキーワードに集約できます。まず、考え方を、「教員がどう授業を作り、どう学習者に教え授けるか」から、「学習者が自分で選び決めながら進める学びに、教員としてどう関わるか」に変える。「あらかじめ」決めた教授の計画を完遂するのではなく、学習者の自己選択の機会を最大化し、自己決定で貫く学びのあり方を追求する。その上で、「後追い」を基本に、学習者のみでは到達できない内容や目標に向かう過程を支え、共に探究していく。
『教育は変えられる』p.88
明治時代から150年続けられてきた,教師主導の教授。最近では,グループ学習やジグソー法などの講義形式では無いものも流行ってきておりますが,それでも「教員がどう授業をつくり,どう学習者に教え授けるか」という根幹は変わっていないと思います。
その根幹を「学習者が自分で選び決めながら進める学びに、教員としてどう関わるか」に変える。これが学びの構造転換です。そして,後追いを基本に,学習者のみでは到達できない内容や目標に向かう過程を支え、共に探求していく。この教師の存在も転換していく。大変魅力的に感じました。特に,後追いという言葉や,共に探究していくという言葉は,これからの教育に大切なことだなと思います。
そして,この学びの構造転換についてさらに次のように述べています。
その目的は、「真」の「主体性」と「多様包摂性」を育むこと、分かりやすく言えば、「自由」を支える「自ら行動起こす意志」と、「相互承認」を支える「多様で異質な他者と共に生きる意志」を育てあげることにあります。
同掲書p.89
自分が生きたいように生きる(自由)という意志を育て上げ,その自由の相互承認を育むために異質な他者と共に生きる覚悟を育てるという,苫野氏の勉強する目的(<自由>になるため)を達成するための方法として位置づけられると感じました。
苫野氏の勉強する目的については,別の記事で詳しく書いたのでそちらをご覧ください。
また,この学びの構造転換を実施しているS中学校の調査について,以下のように評価しています。
すぐにわかるのは、例えば①3教科平均で見た際、横軸=得点の平均では中下位にもかかわらず、縦軸= R3以上の割合では最上位なことです。研究の中心だった③数学科は縦軸で突出して最上位であり、教員主体の一斉授業から学習者主体の共同ベースに転換しただけでもR3 = 50%(15人/30人)と厚い中間層が生まれたことにポイントがあります。なお,この考察は,通塾等を十分考慮したうえでのものです。
(中略)
S中学校の事例は、共同が、課題解決やつまずき・学び残しの予防・解消の手段としてのみならず、「共に生きる」ことそのものを学ぶ機会となり、学校生活全般に発生していくことの証左にもなります。ただし、学びの構造転換の考え方に基づけば、すべてを共同にすればいいということにはなりません。その必要は、一人一人に異なるという前提に立っているからです。
同掲書p.294
R3というのは,杉並区独自で行っている学力調査から,生徒をR1〜R5までと分けた際に,基本的な知識技能をおおむね定着していると判断された生徒のことです。3教科の平均が中下位ということは,学校としての全体的な学力は高くないということです。にもかかわらず,このR3以上の割合が最上位ということは,学びの構造転換によって中間層がR3以上の学力へと引き上げられたことを示唆しています。
学びの構造転換では,落ちこぼれが多く生じるのでは無いかという懸念に対する反論としてのデータとなるのではないでしょうか。「学習者の自己選択の機会を最大化し、自己決定で貫く学びのあり方を追求する」これが本来の学びであると私も考えます。
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2021年3月から長泉町にある個別指導の学習塾「濱塾」を経営している高濱と申します。教育に関する情報を発信していきます。