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「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その③

 
2024年8月21日(水)に開催された第3回持ち寄り勉強会。
今回は、その②に引き続き、
環境人文学者・千葉先生のお話
〜宮沢賢治の物語から紐解く「里山」というインターフェイス〜
の続きをお届けします!



自然への「返礼」と「TLC」


ー 話を戻すと、山や森は私たちに何かをくれます。
 僕らの贈与ぞうよもそうですし、今日の皆さんの贈与(持ち寄った料理)もそうですが、言い方を変えれば、「自分の何かを切り取って誰かに与えて、誰かを救済している」っていうこともできるんです。
 つまり、贈与には、自己犠牲による救済、という意味もあるんですね。

 たとえば、あるインド思想(※1)でもそうですけども、「誰かに贈与する」っていうことは「自分が持っている何かを切り取って、その人に捧げ、救済する」ということであって。
 はなはだしいところになると「じゃあ、貧しい私は何を差し上げたらいいんでしょうか」ということになる。

 理念としては、自分の目・耳・手・腕を切り取って困っている人にあげて、その人が何らかのかたちで救済される…という信仰なわけです。
 その理念から、じゃあ、ハンディキャップっていうのは何なのか、という意味も見えてきます。
 ハンディキャップというのは、「すでに誰かを救った印(※2)」だ、っていうことになるわけですね。

 では、そのハンディキャップを負った人はそのままでいいのか、というと、そうではなくて、その人が負った犠牲を、やっぱり誰かが補填ほてんし、救済しなくちゃならないわけです。
 そこには、「犠牲」から「再生」をはかる、という意味で、贈与に対する返礼が必要なんです。(※3)

 そしてそれは、森や自然と、人間社会との間でも同じで。
 森がギフトをくれたということは、森が何らかの犠牲を払ってくれているわけです。
 その犠牲に対して、私たちは返礼として、何らかのかたちで彼らの再生をアシストする義務があると思うんですね。

 そうした生き方を実行するからこそ、森は私たちにギフト(贈与)を与えてくれるわけですが、そうした生き方やいたわり無しに森の命を頂いているとすれば、それは一方的な収奪しゅうだつ強奪ごうだつであって、犯罪に他なりません。

 皆さんで作られている冊子(※4)への寄稿でも書いたことですが、森の再生・山の再生のためにシャケが川をのぼっていって、海由来のシャケ由来の窒素ちっそが森林の形成に寄与していたわけですが、今、僕らはそこに、ダムとかせきとかを作って、あるいは人工孵化ふか放流事業と称して、シャケをのぼらせないようなことをしている。
 つまり、山の再生を全然アシストしていないんです。

 たしかに、田んぼに水を引いたりするために、貯水は大切なんですが、もう少し注意深い"何か"が必要なんだと思います。
 田んぼで米を作るのも大切だけど、魚の習性に逆らうことのないようなせきとか水路などを工夫することも大切で…。

 シャケが川をのぼりたいところまでのぼって、クマに捕食され、森と合一ごういつするような物語…それをちゃんと心得たような人間性、それを想像して実践するような能力が、今、僕らに問われているんだと思います。

 それがまさに、「多種類コミュニティ」で生きていくための、私たち人間としての行動準則であり、マナーであり、「経済」(※5)だと思うんですね。


 山や森は、自生的に存在しているのでもなければ、超自然的な何らかの神様が絶対的な力をふるっているわけでもなくて…。
 そこにあるのは、総合的な再生のための、相互アシストの絡まり合い…つまり、山に対する信仰や、動植物に対する共感、そして「TLC」…その連鎖なんです。

 この「TLC」っていうのは、ドイツ系イギリス人の経済学者エルンスト・フリードリヒ・シューマッハーが提唱した「テンダー・ラヴィング・ケア (Tender Loving Care) 」の略で、僕らは「優しく愛情のこもったいたわり」と訳しています。

 どんなに精緻せいちに作られた法律やシステム、制度、約束事であっても、それぞれの人たちのインターフェイス間で、この「TLC」がなければうまくいかない。

 「ここはこういう風な約束で動きましょうね」と言っていても、そこで実際に動くときに、お互いを気遣って「あなたはこの仕事の役割だけど、子供が熱出して大変そうだから…私、今ちょっと手が空いたから手伝うわ」とか、そういう潤滑油じゅんかつゆみたいな、他者の痛みを自分の痛みとして感じるような、「寄り添い」や「共感」がないと、システムって全然うまくいかないんですね。

 これが一番大事で、システムや制度、約束事も大切だけれども、そのインターフェイスにこういう「いたわり合い」がなければ大変なことになる、っていうことなんです。


自然を観察し、発想する「野生の思考」


 こういったことを、僕ら人間がちゃんと認知していくことが大事なんですが、そのためには、僕らは自然のいろんな現象を見ながら「あ、こういう風にして自然がつながって回っているんだ」っていうことを理性的に観察した上で、そこから哲学をして、発想をして、自分たちの人間関係やコミュニティのシステムをデザインしていく必要があるんですね。(※6)
 こういう風な発想のことを、僕らは「野生の思考」って言います。

これはフランスの人類学者・クロード・レヴィ=ストロースが提唱した「構造主義」というものの見方です。
 野生の構造や仕組みからいろいろ学び、発想して、自分たちの社会や行動を、自然の摂理や秩序に逆らわないかたちでデザインしたり、維持したりしていく…という発想です。(※7)

 たとえば、僕が「前浜まえはま椿つばきの森プロジェクトで、「昔から、椿が海と陸の間の海崖に生えていて、その『海と陸の間をつなぐ椿』っていうコンセプトで私たちの復興を考えてみる」と言いはじめたのも、そういうことなんですね。(※8)
 つまり、その地域の自然風土に即したかたちで、私たちの思考と地域社会の復興、まちづくりを考えていこうっていう…その発想なんです。

 どんな動物だって植物だって、やっぱり私たちは同じ魂でつながっていて、そこには「あ、かわいそう」だとか、「話はできないけどこういう気持ちかな」とか、共感することがあったりします。
 それは、やっぱりそこに「同質の魂」が流れているからだと思うんですね。

 私たちは、そんな風にケアしたり、共生したりしながら、「多種とともに世界を共同制作していく生き方」を実践していく必要があるんだと思います。

 レヴィ=ストロースが言っているのは「自然環境の構造や仕組みを見ながら哲学しよう、発想しよう」ということだと思います。
 そして、ただ発想するだけではなくて、今一歩進んで、実際に多種と絡み合って、もう少し「多種類生物のウェルフェア」とか「多種類生物のウェルビーイング」といったように、彼らの生活の良好性や福利ふくりっていうのも考えながら、共に生きていくことが大切で…。
 僕らだけの福利厚生とか利便性の追求、っていうんじゃなくてね。

 まあ、僕らだけの利便性を追求してきた結果、こんなに暑い夏になって、気温や海水温が上がって、作物が不作になったり、魚が獲れなくなったりしているわけですよね(苦笑)。

 だから、ここはよく考えるべきなんですね。(※9)
 自分たちの欲望を直接的にむき出しにするのが、果たして本当に人間の在り方なのか。
 そうじゃなくて、僕らはやっぱり共感とか同感、「シンパシー(sympathy)」っていうんですけれども…自分のことじゃないけれど「他人」が苦しんでいるのを見るとやっぱり心が痛い、っていう感覚を持っているわけですよね。

 その「他人」っていうのは、もう人間のことに限った問題じゃなくて、「他種」、「多種類生物」の問題でもあるわけです。
 そこをちゃんと感じながら、この社会を、彼ら多種類生物と共に生きていく。
 野生や自然、多種からから学び発見しつつ、彼らをアシストするときはアシストして、彼らからお世話になるときはありがたくお世話になりながら、共に生きていく。

 もちろん、お世話になるときはお世話になりっぱなしじゃなくて、僕らもいつか死んだときは、自分たちの肉体(素材)を、彼らに提供する。
 彼らからいっぱいもらった命の贈与は、やっぱり命の返礼として返す。
 それが生と死の交換っていうことの重要性なんです。

 僕らはいつまでも生きるつもりでいますけど、やっぱりどんな生物も、みんないつかは死んでいって、いつかはこの地球の地質や地殻に戻っていく。
 でも「死ぬ」ということは、おそらくそれで終わりじゃないんですね。
 これはオカルティックなことを言っているのではなくて、「死ぬ」ということは「次の生命への贈与」だということなんです。

 私たちの命は常に流れ渡されていき、私たちはその流れの中に存在しています。
 そうした自然の摂理、その「野生の流れ」をなぞるような、流れをせきとめず、アシストするような生き方が、私たちや多種生物の中に埋め込まれているんですね。
 それは、絡み合い「共感」しあう、「同質の魂」のゆえだとさえ思います。
 そして、流れている(渡し渡される)からこそ、そこに尊い魂や共感というものが生まれてくるのだとも思うんですね。(※10)


(次回へつづきます)



注釈
(※1) 南インドのリンガーヤタ派

(※2) 千葉先生 追記: この思想においては、ハンディキャップとは「誰かを救った印」…スティグマ(聖痕せいこん)であり、「救い主」であるが故に、その人は神(シヴァ)に同置されます。

(※3) 千葉先生 追記: 返礼補填ほてんした人には新たな欠損・欠落・欠乏(ハンディキャップだけでなく、孤児・貧困者・被差別者…も)が生じます。その人、その地上のシヴァ神のスティグマ(聖痕)に向かって、贈与・供饌ぐせんいたわりの流れが連鎖的に生じます。
(しかしそのスティグマはその流れとは逆の方向へ渡されていきます。まるで、物財やサービスとは逆の方向に渡されていく貨幣のようです。すべての存在から請われ求められる貨幣のように生きる意味がここにあります。それは貨幣を「蓄積すべきもの」と見做みなすケチな料簡りょうけんとは全く逆の生き方ですし、流れ渡されていくことによって貨幣は成立し、貨幣は貨幣として存在しえます。)

(※4) 2024年『Living with the Sea海とともに生きる』足元の宝ものを未来につなぐvol.2

(※5) 千葉先生 追記:「経済」って「救済」なんですよ。人間だけを救済するんじゃない、経済成長という拡大ではない「経済の拡大」…経済理念(救済)の拡大があってしかるべきです。しかし現実は人間さえも救済せず、弱者・貧困者を自己責任と決めつけ、コストカットの手段としています。それは経済とは呼べない真逆の方向です。

(※6)  千葉先生 追記: それは、石器時代の太古から実践して来たことでしょうし、もっともっと遥か昔、動植物たちが対話しつつ文化や哲学を成しながら、多様な試行錯誤(進化)をしてきた際の必須のプロセスだったろうとも思います。

(※7) 千葉先生 追記: 僕自身にとっては、復興や持続可能性やレジリエンス(よみがえる力)を考える上でとても重要な観点なわけです(が、レヴィ=ストロースは、人間とか社会にこだわる私達を嘲笑するように「世界は人間なしに始まったし、人間なしに終わるだろう」とも語っています)。

(※8)  千葉先生 追記: もちろん、そうした「椿の民俗」はかなり古い時代から受け継がれていましたが、高度経済成長の中ではなかば忘れ去られていたと思います。それを、前浜の人々がもう一度発掘し、再認知したと言えます。

(※9) 千葉先生 追記: でもここで言いたいのは、人間社会が危なくなってきたから「人間保護」の手段として「環境保護」を頑張りましょうね、というのでは全くありません。これだと、人間はやっぱり世界のご主人様に他なりませんもんね。
 よく私達は、「人間と動物」とか「市民と害獣がいじゅう」とか線引きしますが、そんなの人間の勝手であって、私たち人間と彼ら多様な命を明確に分ける根拠など何処にもありません。
 大切なことは、「私たち人間にも人以外の存在にも、共感できる同質の魂が共に宿っている」と感じられること(アニミズムor多種との共感)ではないでしょうか。多種多様なそれぞれ別々の種でも、「共鳴する命」や「魂の共感」という根底で繋がっていると(→多自然主義)。
 確かに経済活動の原動力は「欲望」だと言われます。でも自分たちの欲望を、直接的にむき出しにするのが、果たして本当に人間の在り方なのでしょうか。
「経済学の父」アダム・スミスも「利己心」(欲望)を強調します。それによって無駄のない合理的な労働や生産が組織され「国富こくふの増加」(経済成長)が図られると(→国富論、分業論)。
 でも忘れてはいけないことは、スミスが人間の最も大切なものとして「共感」を挙げていることです。彼が望んだ国富の増加とは、「法の実現」(法律がちゃんと守られ安定した平和な社会)のためでした。
 さらにその根底には、犯罪を引きを起こしてしまう貧困者や弱者に対する救済がありました。彼らに、ちゃんと富を分配できるような経済成長が必要だと、苦悩する人々に心を寄せていたんです。これが、「経済という救済と共生」の基本の「き」だと思うわけです。

(※10). 千葉先生 追記: また経済学に戻りますが、その意味からいえば、「現代経済」は完璧にこの「野生」を失っています。尊い貨幣を流れに戻さず死蔵しぞう(格差社会、巨大な内部留保)すればするほどに、「救済を忘れた経済」は暴走の一途を辿ります。

《ここ掘れワッショイ!》 執筆:亀山理子 / イラスト:佐藤優花
「足元に眠る宝もの(みんなが当たり前に持っていた地域の暮らしの知恵や食文化、自然と共生する在り方など)」を掘り起こし、その豊かさを改めて見つめ直し、次世代へと繋いでいきたい。
そんな思いのもと、地域の方々と一緒に開催している「持ち寄り勉強会」の模様をお届けする連載マガジンです。

記事一覧:
【1】「地域のみんなの顔が見える冊子っていいね!」 2024.6.27 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
【2】「地域のみんなの顔が見える冊子っていいね!」 2024.6.27 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
【3】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
【4】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
【5】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その③
【6】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
【7】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
【8】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その③
【9】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その④
【10】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その⑤


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