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「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その④


2024年8月21日(水)に開催された第3回持ち寄り勉強会。
今回は、その③に引き続き、
環境人文学者・千葉先生のお話
〜宮沢賢治の物語から紐解く「里山」というインターフェイス〜
の続きをお届けします!



インターフェイスは、共同制作・創造の場

ー これまでお話ししてきたような贈与ぞうよ交換、絡み合い、多種生物間での交流・交感の最前線の現場が里山であり、それは、異種間を接続するインターフェイスとも言えます。

 現在の私たちは、そのインターフェイス…相互共同の場を、人間社会や都市のニーズに沿ったかたちで、切断・分断しながら都合のいいように変えていこうとしているわけです。

 たとえば、里山とは違いますけれども、このあたりの海と陸のあわい(間)も、とても大切なインターフェイスです。
 しかしその海岸にはいま、"防災"という都合で、巨大な防潮堤ぼうちょうていが建っていたりします。

 ここ蛤浜の防潮堤はまだ低い方(水面から5mほど)ですが、私の地元・気仙沼の小泉こいずみの海岸の防潮堤は、高さ15mです。
 あきらかに海と陸とを分断しているんですね。

 こうやって、「海は海」「陸は陸」って分けて、危険な海から陸や人を分離して管理したほうが、人間にとって合理的で安全を確保しやすい…と思っているのかもしれません。(※1)
 でも実は、あれほど大きな被害を出した津波だって、僕らにとって良いものでも悪いものでもないとも思うんです。

 それは僕らにとって「役に立つ」「役に立たない」で判断すべきことではなくて、津波は災禍さいかでも恩恵でもなく、この地球の営みの中で、津波には津波の、いくつもの意味や役割があって。
 その大いなる流れ…「野生の流れ」の中で、私たちは、癒されながらも注意深く順応的に共に暮らして行くのみ、なんですね。

 こんなことを言うと、津波で犠牲者を出されたご家族には大変申し訳ないのですが…津波の被害っていうのは、やはり人間社会があって初めて、津波の被害があるわけです。
 人間社会の活動がなければ、どんなに大きな津波や地震があっても、災害は発生しないわけですね。(※2)
 つまり、災害っていうのは、私たちにとってのメリットを前提とした発想から「災害」っていう言葉が生まれた。そこに社会がなければ、災害は発生しない。

 でもこれも人間中心的なことで、たとえば人が住んでいなくてカツオドリとかアジサシとかが住んでいるところ…西之島にしのしまのような地で火山が爆発したら、やっぱり彼ら鳥たちにとっても災害ではあるんですよね。
 でも彼らは、火山と共生していこうとしているように思います。

 一時的に姿を消しても、またすぐ戻ってきて、また爆発があっていなくなっても、また戻ってきて、というふうに…。
 彼らは島の中で、彼らが持ってきた微生物や虫(生き残った昆虫も含め)や、自分たちの死骸やふん、溶岩や噴石ふんせきや火山灰と絡まり合い、混ざり合いながら、いま西之島に新しい土壌を作っているわけです。(※3)


 だから、本当にこれは「世界の共同制作」であって。
 災害が起こったからと、単純に「あそこは危険だからコンクリートで固めてしまえ!」と言って、隔離したり分断すればいいっていう問題じゃないわけです。

 こうした異質(海と陸、森と社会、火山と生物…)が向き合い絡み合うインターフェイスの「切断」、っていうことに関しては、僕らはもっと真剣に考えるべきなんだと思います。

 切断ではなくて、いろんなものが絡み合って、そこにけっこう面白いブリコラージュ(ありあわせの道具材料で、自分の手でものを作る・寄せ集めて新しい物をつくること)が生まれてくると、じつはそれが未来を担うことがあるんだ、ということです。
 このインターフェイスの扱い方によって、その社会にイキイキとした未来があるか・ないかが、ある程度決まってくると思うんですね。

 今の私たちは、「熊は危険だ」とか、そういったことで、単純に「熊は熊でここに隔離しておけばいい」とか、さらに「熊が出てくる里山、今荒廃しているあそこの場所には防壁ぼうへきを作ればいいんだ」とすぐに分断していくわけですよね。

 でも果たしてそれで本当にいいのか?ということです。
 そういう単純な分離や隔離の発想ではなくて、私たちは熊とどう絡むのか。猪、鹿、猿とどう絡むのか。

 確かに、食害などいろんな問題があったりもします。
 でも、それを一方的にこちらの都合だけで防ごうとするんじゃなくて、なんとかお互いが共存できるようなかたちで、彼らの言い分にも耳を傾けながら、彼らのウェルフェアやウェルビーイングも考えながらやっていこうっていう…それぐらいの覚悟とか、発想っていうのは、やっぱり必要だと思います。

 僕が「里山がこれからの未来の最前線である」って言うのは、そこにあるんです。
 里山のようなインターフェイスを、単なる越境えっきょうや侵入領域と捉えるのではなくて、共生・協働のための双方向性や多様性の挙動きょどうのあり方しだいで、なにかが変わり、未来を担うなにかが生成されていく…そういう、「創造の場」として捉えていくことが必要なんですね。

 僕らは、なにかが起きるとすぐ断絶したり隔離したりしてしまう。
 たしかにこのほうが手っ取り早くて、公共事業はそのほうがやりやすいのかもしれない。
 でも、果たしてそれでいいのか、よくよく考えていく必要があると思います。

一方的な働きかけから、対話的労働・共制作へ

 
ここで、「働く」ということに関して、ギリシャ語では3つぐらい、用語があります。

 自分たちの言い分をごり押しして、こっちの論理、こっちの都合だけで労働対象とか他のことをあまり考えずにごりごりでやることを「プラクシス」または「テクネ」って言います。

 たとえば、こっちの都合だけで、相手がなにを求めているのか、どんな性質を持っているのか、相手がどんな風なものになりたいのか、というような対話を全くしないで、こっちの都合だけでチェンソーで伐採するだとか、重機じゅうきで一方的に改変してしまう、というようなやり方を、「プラクシス」または「テクネ」って言う。

 それに対して、例えば柳宗悦やなぎ むねよしが言った「民藝みんげい」にちょっと近いようなニュアンスで…ここにあるお椀なんかまさにそうなんですが…。
  この木地の性質とか、どこに節があって、そこにどんなひねりが加わっていて、この木はどんな風に加工されたいんだろう?って、ずっとその素材と向き合う中で考えていって、その上でこちらの労働も加えて、素材と対話しながら共同作業でものを作っていく…。
 そういう風なあり方のことを、「ポイエーシス」って言うんですね。
 僕はこれを「対話的労働」っていう風に訳すんですけれど。

 特に、自分の一方的なもので押し通すんじゃなくて、いろんな人たちと共同してお互いに対話をしながら、対話をあきらめないスタンスで、なにかを一緒に作っていきましょう、という風なあり方ですよね。
 対話をあきらめないっていうのは、なかなか理解できない「多(他)種」との対話も含めて、それをあきらめない、っていうことですが…。
 そういうやり方を、僕ら研究者は、特に最近、「シン・ポイエーシス(共制作)」というふうに言っています。

 いつも僕ら人間は、「ポイエーシス」よりも、一方的な「プラクシス」をすぐやっちゃうんですよね。
 でも、こういう一方的なやり方じゃなくて…。
 たとえば「あの山は安いから」「あそこの建設会社の重機を使えば安いから」って言ってガリガリ山を削る、っていう風に、市場しじょうに任せるんじゃなくて…。
 あるいは、国家が「ここに高速道路を作る」「トンネルを掘る」っていうのに任せるのでもなくて…。

 そこの中間にあって、国家でも市場でもない、つまり民間でも行政でもない、そこの真ん中にいる私たちの、市民社会の倫理性とか良識っていうものが、常に大切なんですね。

 いくら優秀な政治家であっても、いくら経済が順調な国家の市場システムであっても、その間にいる市民の倫理性がしっかりしていないと、市場は失敗しますし、政府も失敗するわけです。
 それで私たちの政府は、この10年、さんざん失敗しまくってきた。
 それは私たちが、健全な市民社会を持てていなかった、健全な批判力を持ってこなかったというあかしでもあると思うんですね。

 だから、「国家に任せておけばいい」「市場の意思判断でいい」というのではなくて、実は、その間にあって、どっちでもない、「私たちの市民社会」の倫理性、良識が必要なんです。
 
 そしてそれは、人間だけじゃなく、多種も含めたいろんな"誰か"を、救済して、そこからいろんな苦痛を取り除くかたちで、ちゃんとバランスをとりながら共に世界を作っていきましょう、ということ…「シン・ポイエーシス(共制作)」…であり、私たちがしっかりしていないと国家も失敗するし市場も失敗する、ということでもあるわけです。

 つまり、里山のようなインターフェイスで、「more than humanモア・ザン・ヒューマン(人間以上)」に対するケアをしながら彼らと付き合う中で、僕ら人間が作っていくものはなにか。
 それは、その地域になくてはならない共有資源・共有空間としての「コモンズ」そのものだ、ということです。
 でも注意しなくちゃいけないのは、それは資源でも財産でも素材でもなくて、多種多様な命と魂である、ということです。

 今日お集まりの皆さんも、この地域になくてはならないコモンズ性を持っているし、おそらくこの「はまぐり堂」だって、ものすごいコモンズ性を持っているわけです。

 コモンズを作る、といっても、「入会地いりあいち村落そんらく共同体が総有する土地、または共同利用が認められた土地)だからみんなで取ってもいいぞ」っていうことではなくて。
 コモンズを構成する多種との対話と共生によって、持続可能性を実現していくことだと思うんです。
 そしてそれは「多くの人たちから求められるものになる」ことに等しい、とも思うんですね。

 別の機会でお話ししたときにも、「誰からも求められる"貨幣"に、自分自身がなりましょう」ということを話したと思うんですが…。
 つまり、「貨幣を貯める」のではなくて、「自分が誰からも求められる貨幣になる」ということは、「自分が持っているものをつねに誰かに与えながら、救済をつづけながら、流れていく存在になる」っていう生き方なんですね。


(次回へつづきます)


注釈

(※1) 千葉先生 追記: でもですね、海と陸(山や森)、地と水の交流や絡み合いが断たれれば、お互いがお互いをアシストし癒すような関係も失われます。
 私たちだって、津波・台風・洪水…海や水に何度も打ちのめされながらも、海や水に癒され潤されて生きて来たはずです。
 また海と陸のあわい、海なのか、川なのか、沼か湿地か干潟なのか判然としない曖昧なものが持つ生物多様性やレジリエンス(再生する力)の可能性も失われます。
 たとえば仮に、その分断によって海からは海の恵みを、森からは森の恵みを、人間の都合がいいように取り出し拡充・培養したところで、その先には不毛と危険しか待っていないと思います。

(※2) 千葉先生 追記:  津波で大きな被害を出した石巻の南浜みなみはま門脇かどのわき地区もそうですが、経済的・物的合理性を優先させた海浜かいひん境界面の攪乱かくらんゆえの大きな悲劇だったと思います。

(※3) 千葉先生 追記: ヤニイロハサミムシ等の節足せっそく動物は、海鳥の死骸を分解し、糞をすることで生態系の土台である土壌を作り出す役割を担っている。


《ここ掘れワッショイ!》 執筆:亀山理子 / イラスト:佐藤優花
「足元に眠る宝もの(みんなが当たり前に持っていた地域の暮らしの知恵や食文化、自然と共生する在り方など)」を掘り起こし、その豊かさを改めて見つめ直し、次世代へと繋いでいきたい。
そんな思いのもと、地域の方々と一緒に開催している「持ち寄り勉強会」の模様をお届けする連載マガジンです。

記事一覧:
【1】「地域のみんなの顔が見える冊子っていいね!」 2024.6.27 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
【2】「地域のみんなの顔が見える冊子っていいね!」 2024.6.27 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
【3】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
【4】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
【5】「豊かな海は、豊かな森から生まれる」2024.7.24 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その③
【6】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その①
【7】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その②
【8】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その③
【9】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その④
【10】「里山はこれからの未来の最前線。環境人文学から捉え直す自然と人との関わり方」2024.8.21 持ち寄り勉強会@はまぐり堂 その⑤


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