レシピ小説 ワサビの心
おことわり
本作をお読みになると、かなりの方の脳裏に「あの漫画」が思い浮かぶはずです。そのとおりです。本作は「あの漫画」のパロディにしてオマージュにしてリスペクトな作品となっております。
本作に登場する人物、会社、固有名詞など全てフィクションであり、実在のものとは全く関係ございません。
また、本作に登場する料理のレシピは、全て作者のオリジナルとなっておりますので、どうぞ安心してお試しくださいませ。
では、本編のはじまりです。
■ワサビの心
「川中!川中はいるか!」
竹林に囲まれ、耳を澄ませば遠くの渓流のせせらぎが聞こえてくるほど静かな山荘に、大声が響き渡った。
「は!はい、旦那様、いかがなさいました?」
山荘の主人、山原大洋の声を聞きつけ、川中森男が飛んできた。
川中はこの山荘、”具流満荘”の料理人で、山原大洋の側近だった。
「川中!おまえ、この動画を見たか!」
大洋は小説家にして食文化評論家、超の付くグルメとしてテレビ、雑誌などメディアに露出することも多い有名人だった。そして、この具流満荘の主催である。
「は!これですか、ええ・・」
大洋が川中に突き出したタブレットに映っていたのは、海川五郎のユーチューブチャンネルだった。
-あぁ、五郎坊ちゃん、またやってるのか。
「川中!見たことがあるのか、知ってるのかと聞いているのだ!!」
”くわっ!!”という擬音が背後に見えるほど目を見開く大洋に気圧され、肩をすくめながらも川中は応える。
「あ、いえ、見たことはありませんが、五郎坊ちゃん、またなにか?」
「あぁ、五郎め、私が雑誌に書いた握り寿司の記事を取り上げて、好き放題ほざいておるわ!見てみろ!」
「はぁ、では・・」
そこには、大洋の握り寿司に対する考え方や世の風潮への批判に対して、反論を展開する五郎の姿があった。
元々の大洋の記事は、今の日本人の風潮が本来の握り寿司をダメにしている、ということを主軸にしたものだが、論調として筋は通っており、だからこそ雑誌にも載って読者の反応もいい。片や五郎の反論も現代の世相を反映してそれほど無茶な論調ではない。だが大洋が許せないのは、どうやら”ワサビ”の下りのようだ。
五郎は動画の中で、握り寿司のワサビについてこう言っていた。
「山原大洋は最近のスーパーの寿司にワサビが入っていないとか、回転ずしでワサビが別盛りになっている点を挙げて、寿司文化の終わりだの日本人は粋を理解できなくなっただのと喚き散らしているが、生産、流通、調理技術が発達した現代では、ワサビを使わずとも握り寿司は成立している。それに子供が泣くだろ?ワサビが入ってると。山原大洋こそワサビの使い方も知らない、時代錯誤の老害に過ぎないんだ!!」
大洋の眼がみるみる大きくなる。
「むぅ、五郎の奴め、言うに事欠いてこの私のことを、この山原大洋を、ろ、老害だと?」
-ああ、旦那様がキレておられる。こりゃまた、言うぞ言うぞ~
「川中!すぐ五郎に連絡しろ!!貴様にワサビのなんたるか、叩き込んでやるとな!!それと、知り合いのグルメにも声を掛ける、出版社にも連絡しろ、この件、特集させるぞ!」
-あ~ぁあ、今回は出版社まで巻き込むのか、あ~ぁあ。
「なんだ川中、なにか不満でもあるのか!?」
「い、いえいえ!では、すぐに手配をいたしますので!」
川中の目は確かに見た。大洋の後ろに”くわっ!!!”という擬音を。
・
・
某日、某時刻。
「ふぅ、こんなところにあるのね、具流満荘って」
山原大洋の自宅兼仕事場兼料亭兼宿泊も出来る具流満荘、竹林を拓いた広大な敷地に建てられた屋敷はこじんまりと見えるが、それは目の錯覚で、車を降りて玄関に着くまで、だらだらと上る坂道をまぁまぁ歩かなければならなかった。
今日、私、粟田ゆり子はデスクの命でこの具流満荘で行われる”ワサビ対決?”の取材に来ている。なぜデスクが新人記者の私をたったひとりで向かわせたのか、よく分からないけど、とにかくワサビ対決の顛末を記事にする。
私の初めての記事だし、その対決の見届け人も兼ねているらしいから、頑張らなくっちゃ!
でも、デスクが最後に言った言葉「気を付けろよ」って、気になるわ。
ようやく具流満荘の玄関にたどり着くと、そこに掲げられた”具流満荘”の大看板を見上げる男性が目に入った。
ワサビ対決の当事者、海川五郎。結構な人気の料理系ユーチューバーね。
山原大洋は超大物だけど、こちらは見るからにちょっと貧乏そうな格好。よれよれのスーツにぼさぼさの髪。ユーチューバーって、そんなに儲からないのかしら?まぁいいわ、超大物を相手にするより簡単そう。
私は海川五郎に近づくと、名刺を取り出して声を掛けた。
「あの、海川五郎さんですね?今日はワサビ対決ということで、私、文化出版の・・」
「あ?ああ、どうも」
海川は私の言葉を遮って名刺を掴むと、チラリと一瞥して”ふん”と鼻を鳴らした。
-な~にかしら、この態度、初対面なんだから頭のひとつも下げなさいよ!で、ふんっ!ですって、ふんっですって!!!
私はこめかみに十文字の血管が浮かぶのを必死に堪えながら、笑顔を作って言った。
「ほ、本日はよろしくお願いいたします。私、なにぶん新人でよく分かりませんので、お手柔らかに」
「ああ新人か、だからこんなとこにな、しかもひとりで、ふんっ!」
-ま~た”ふん”って言った!!ま~~た”ふん”って!!
私はもう海川の顔を見ることなく、ひとりで具流満荘の玄関をくぐった。
もう常識の通じる人と話さないと、怒り心頭でどうかなっちゃうわ。
「ごめんくださいませ、わたくし、文化出版の・・」
「君は何者かねっ!!」
突然、奥から現れた老人に一喝された。いや何者かねって、今の今、自己紹介しようとしたのにぃ。
「あ、あ、わたくし、こういう者で・・」
おずおずと名刺を差し出すと、老人はそれを掴んで一瞥し、ふんっと鼻を鳴らした。
-ぎゃ~~っ!こいつもだわ!!
「川中!川中はいるか!文化出版だそうだ!たったひとりで来たぞ!!」
老人は川中という人に私の名刺を渡した。言葉尻から察するに、この老人が山原大洋、テレビで見るのとちょっと印象が違うわ。もう少し大物感があると思ったけど、ちょっと気難しいおじいちゃんって感じ。
そんなことを思う私を尻目に、山原は玄関先に突っ立っている海川に向かって言い放った。
「五郎!!よくもその顔を私に見せられたものだ!さっさと入れ!」
「なにをジジイ、お前が呼びつけたんだろ!言われなくても入る!」
もう訳が分からない。私の目はもう点点だ。このふたり、チョー仲が悪い。確か祖父と孫の関係よね。
ひとり立ち尽くす私に、川中さんが声を掛けてくれた。
「文化出版の、えっと、栗田さんですね。びっくりしたでしょ?でもいつもああなんで、お気になさらず」
「あ、えっと・・はい、よろしくお願いします」
-やっとまともな人に会えた、細かいことは気にしない気にしない。
私は案内してくれる川中さんの後ろを付いていった。
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ワサビ対決の会場は、ちょっとした宴ができるほどの畳間だった。広い一枚板の卓上に立派な本ワサビが盛り付けられ、すでに箸や椀、皿なども配膳されている。あとは山原と海川が選んだ食材でしつらえた料理が出てくるだけだ。
私は立場上、取材と同時に見届け人として1票を投じることが出来る。でも、ただの小娘がこの場に座るなんて、という圧を感じなくもない。なぜなら、山原が招待した見届け人は寺田太筆と堺野商人という大物だったからだ。
寺田太筆は書家でその道では知らぬ者はいない。御年八十を超えるが無類のグルメという噂だ。堺野商人は大物投資家で経済評論家。テレビで見ない日がないほどの有名人、50代でバリバリ、歯に衣着せぬ物言いでズバリと確信を突くのが人気らしい。もちろん舌も肥えているだろう。
そんなふたりを前に、私はなぜか海川五郎側に座っている。まぁふたりは山原大洋が招待しているのだから、バランスとしてそうなるのだろう。それは分かるが、やはり緊張してしまう。
「栗田さん、そんなに緊張しなくて大丈夫ですよ?私たちはあなたよりず~っと年上なんだから、逆に私たちを頼ってくれたらいい」
「そうですな、えっと、文化出版の栗田さん?私らはようこんな場には呼ばれ慣れてますから、あんたもリラックスな」
大物のふたりが私に優しい言葉を掛けてくれる。名前も川中さんから聞いたのだろう。名刺も渡さない不躾な私に、こんな優しい言葉を。
寺田の老木のように落ち着いた声、堺野のフランクで優しげな関西弁、私の緊張がほぐれ、口元に笑みが浮かぶのを感じた。
-うん!細かいことは気にしない!
「はい!ありがとうございます!おふたりのお陰ですっかり大丈夫です」
「ほな、そろそろ始まるで」
「そのようですな」
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畳間の障子は開け放たれ、手入れをされた庭がよく見える。そして閉まった側の障子に、捧げるように料理を持つ人の影が映った。
「お待たせいたしました。それではまず、山原大洋の料理をお召し上がりいただきます」
川中さんが挨拶をする間に、私たちの前に料理が並ぶ。
-握り寿司だ。でも、ずいぶんクラシックな感じだわ。
大洋はやはり、五郎に批判された握り寿司で勝負するらしい。ただ、この握りは普通に寿司屋で見る寿司盛りではなかった。
「ほぉ、こりゃまた懐かしい寿司盛りだなぁ、昔はこんな感じだったよ」
口を開いたのは寺田太筆だ。
「今の小さな握りじゃない、60年、70年前、私が若い頃のと比べても少し大きいか?」
「そうですなぁ、関西は押し寿司文化ですから、ちょっと昔の頃は分かりませんが、今の握りよりずいぶんと大振りですなぁ」
堺野商人も同意する。
寺田太筆と堺野商人の言うとおり、握りは一貫が大きい。でも、寿司ネタも違う気がした。
-あ、生がない。いえ、生そのままの魚がないんだ。
私がそんな、大きさもネタも現代と違う握りを見つめていると、大洋が自分の前に置かれた寿司盛りについて語り出した。
「ほぉ、お嬢さんも気がついたようだね。大きさだけじゃないだろ?現代の握りと違うのは」
突然大洋に話し掛けられて、私はどぎまぎしてしまう。褒められた?
「それではご説明しよう。本来、握り寿司を食す順番はお好みだろうが、今日はワサビ対決だ。まず私の言う順番で召し上がっていただきたい」
大洋はひとつめのネタとして、銀色の皮目が美しい光りものを指差した。
「こりゃ、コハダかい?いや、大きいな。こりゃ」
太筆がつぶやく。それに大洋が応えた。
「寺田先生、そのとおりです。これはコノシロですよ」
「はぁ、コノシロかいな、そりゃ山原先生、無茶やで。コノシロはシンコ、コハダって大きくなればなるほど価値が落ちる。そら誰でも知ってます」
「えぇ、堺野さんのおっしゃることもその通り。しかしあえてこれなんですよ。なぜなら今日は、美味い握りを食す場ではない。ワサビの力を知っていただく場なんです。まずは、召し上がっていただきたい」
大洋の言葉に一同うなずき、コノシロの握りをつまむ。
-やだ、みんな手でつまんでる。でもお寿司って箸で食べるんじゃないの?あ、海川五郎も手で。私、手で食べたことないかも。でも、お箸がないな。
私は握り寿司をどうやって食べるか分からず、周りを見回してしまった。なんて無作法。そんな私を見て、寺田先生が助け船を出してくれる。
「あぁ、お嬢さんのお歳だと箸で食べるんだね。でもね、握りは本来、手でつまんでいただくものだから、緊張せずに、さ、つまんでごらんなさい?」
「あぁなるほどな、ジジイの言うことも、この新人さんを見りゃ一理あるって思えるな」
「ご、五郎坊ちゃん!なんてこと」
不躾にもほどがある海川の言葉を川中さんが慌てて止めるが、当の大洋はどこ吹く風、逆に口角を上げて微笑んでいる。余裕というのだろうか。とにかく私は寺田先生の言うとおり、コノシロをつまんで口に運んだ。
醤油はネタの3分の1ほどを、ちょんっと浸けるくらい。これは皆の所作に習った。
まず口中に広がる酢とコノシロの香り、これは酢締めの酢ね。コノシロの味は少し強いけどコクを感じるわ。すぐに醤油の香りが加わって、三昧が混ざる。それでもコノシロの香りは強く、最後まで消えないかと思われた。でもそれも一瞬、ワサビがネタから舌に乗った瞬間、コノシロの香りを残しつつ、爽やかにしてくれる。鼻にツンと抜けるワサビが飛ぶと、最後に酢飯の甘み、コノシロの旨味だけが舌に残る。
「お、おいしい」
それ以上の言葉は出てこなかった。だけど、私の舌はもうひとつ、違う食感を捉えていた。
「酢飯が、柔らかい。普通の握りより大きいのに、ひと口で食べたのに、ネタと混ざり合ってすぐに無くなってしまう」
その言葉を聞いた大洋は、満足げにうなずいた。
「どうやらお嬢さんも分かったらしいな。この酢飯は柔らかく炊いたわけじゃない。柔らかく握ってあるのだ。そしてさっき、箸を使おうとしたな?では特別に、もう一貫コノシロを準備させよう。それを箸で食べてみるといい。私がワサビと同じく、今の風潮が寿司文化をダメにしていると思う理由が分かるはずだ」
私の前に、コノシロの握りと箸が置かれた。私はそれを、いつものように箸でつまむ。
「あ、酢飯が、割れた」
「うむ、もうよかろう。柔らかく握った寿司を箸でつまめばそうなるのだ。だから最近の握りは、箸でつまんでも割れないように、わざと硬く握っている。更に、子供でもつまめるように、飯を柔らかく炊いてある」
「そうか、だから箸で持ち上げて醤油に浸けても酢飯がばらけない」
「そのとおりだ。ちゃんとした酢飯を直接醤油に浸せばすぐばらける。それが嫌だと客が言うから、特にスーパーや回転ずしでは粘る酢飯を作る。それはシャリ玉ではない。シャリ団子だ」
「はぁ、そうです、ねぇ」
私はこれまでずっと、箸で握り寿司を食べてきた。これって、ずっとお団子を食べていたって事なの?
「栗田さん、そんな顔しないで。それが風潮なんだから、君が悪いわけちゃうよ」
私はショックでずいぶんと暗い顔になっていたらしい。堺野さんが慰めてくれる。
「思わぬところで脱線したが、これはこれで良かった。だが今日のテーマはワサビだ。そちらはどうだったかな?お嬢さん」
大洋は私に挽回のチャンスをくれるらしい。そうだ、ワサビだ。ワサビのことは言える!
「はい、最初コノシロの強い香りと味を感じました。コノシロは酢締めされていますけど、酢の香りに負けないくらい独特でした。嫌なわけじゃなかったけど、強いなって。それが、ワサビが舌に乗った瞬間、口の中の香りが、う~ん、リセット?されたみたいで、最後は酢飯とコノシロの甘みと旨味だけが残りました」
「ほぉ、いい鼻と舌をしている。そのとおりだ。なぜコノシロは小さなコハダやシンコの方が価値があるのか、それはあの香りの強さにある。今日はあえて香りが強すぎるコノシロを使ったわけだが、握り寿司は口に入れたときに感じる食感と味と香りが多層構造になっておる。まずネタと醤油などの香り、今回ならコノシロと酢、醤油だな。そして次にワサビの香りが加わって一端ネタの香りが消える。だがすぐにワサビは退き、次に酢飯も含めた全体の味と食感、最後に後味として残るのは、ほのかなネタと酢飯の香りだ」
そのとおりだった。大洋の言うとおり、もしワサビが無ければ最初の強い香りが最後まで残ることになる。それでは・・
「よく分かりました。山原先生。ワサビがあることで握りは最初から最後まで味の変化が強調される。ということですね?」
私の周りで皆がうなずいている。海川五郎もだ。そうか、これって常識なのか。
「そうだな。だがもうひとつ、そこの若造がネットで喚いていたが、流通や調理技術が進歩したから、ワサビがいらんだと?では今のコノシロはどうだ?酢締めしてあるから傷む心配は無い。お前の理屈だと、これにワサビはいらんな?」
私は横の海川五郎を見るが、五郎は大洋の言葉などまるで意に介していないようだ。そんなことは当然だろう、という顔をしている。
「まぁいい。皆さん、私がなぜコノシロを最初のネタに選んだのか、お分かりいただけたかな?」
この言葉には、五郎も含め全員が深くうなずいた。
その後、大洋の握り寿司は、白身、アオリイカ、車海老、赤身、貝ダネ、青魚と続き、穴子と卵焼きで締めとなった。
そのひとつひとつが食べるものを魅了する。
「ひや~、このアオリイカ!さすがイカの王様や!しかもそれをわざわざ炙ってある。アオリイカは火が入ると独特の香りと甘さが出るんや。それをまたワサビがよう引き立てて!」
「うむ、赤身はマグロだな。湯霜にして漬けか。種類はキハダだな。上品な脂のりで味は淡泊。漬けだからワサビが効きにくいが、だからこそワサビを多めに噛ませて香りを堪能できるというもの。さすがだ」
寺田先生も堺野さんもさすがにグルメ、ネタに対する造詣が深い。語らせればいくらでも蘊蓄が出てくるのだろう。
そしてネタの数々には酢洗いや漬け、煮て、炙ってと、全てに手が入っていた。ワサビが入っていなかったのは、穴子と卵焼きだけだ。
「いかがだったかな?お嬢さん」
大洋がまた私に振ってくる。だけど、もう緊張もない。だって、こんな美味しい握り寿司、初めて食べたのだから。素直に感想を言えばいい。
「素晴らしかったです。でも、トロとかウニとかイクラとか、高いお寿司に入ってるネタが無くっても、こんなに満足できるんだってびっくりしました。あと、握りが少し大きいから、かなり満足です」
「うむ、今日はあえてそういうネタは使わない。理由は、昔そういうネタは入らなかったからだ。それで、ワサビはどうだ?」
「はい、コノシロのときと基本的に同じですけど、香りをリセットする役目を強く感じたり、味の濃いものだとそれをリセットしたり、淡泊なものなら逆にその味を引き立てるというか・・」
「うわっはっはっは!!」
私の言葉を聞き終わる前に、大洋は膝をバシンっと叩き、大きな声で笑い出した。そのあまりの迫力に私は首をすくめた。
「そのとおりだ!お嬢さん、いや、栗田さんといったかな?素晴らしい舌だな!それに表現がいい!さすがに物書きだ」
「い、いえそんな、山原先生のような大小説家にそんなことを・・」
-こんなに褒められるなんて、ほんと、小さな事は気にしちゃダメね。
「いや栗田さん、お前さんの言うとおりだよ。私らにとっては普通のことでもな、こういう握りで説明されればワサビの必要性を否応なしに知らされるもんだ。お前さんはそれを何も知らずして分かったんだから、山原先生の言うとおり、大したもんだよ」
寺田先生も手放しで私を褒めてくれる。堺野さんもうなずいてくれている。海川五郎は?ぶすっとはしているが、否定はしないようだ。
山原大洋は皆を見回して言う。
「握り寿司はたった一貫で完成した料理なのだ。そこにシャリ玉の大きさ、ネタの仕込み、握りの技術と共に、料理として欠かせない要素として使われたのが”ワサビ”。
そもそも庶民の小腹を満たすために考案された握り寿司がここまで昇華した。それこそが江戸から続く握り寿司文化。それをなぜ今の日本人は破壊する?なぜ長年掛けて完成した料理をわざわざ不味くするのだ?私の言わんとすることは、お分かりいただけたかな?」
-ふぅ~ん、これは勝負あったわ。まだ海川五郎の料理食べてないけど、これ以上説得力のあるワサビ料理、あの男に出せるわけないわ。
あ~ぁあ、ユーチューバー海川五郎、アウト!!残念残念!
私はその時すでに、五郎の負けを確信していた。
・
・
少しの休憩を挟み、海川五郎の料理が運ばれてきた。
「それでは、海川五郎さんのお料理でございます。どれも熱くなっておりますので、どうぞお気を付けて」
卓上に並ぶ料理を見て、寺田先生と堺野さんが顔を見合わせている。
「こ、こりゃあかんわ。ワサビの”ワ”もないわ」
「ふぅむ、何か考えがあるんだろうけどなぁ、つけダレにでもワサビを入れるのか?それでもなぁ」
五郎の出した料理、それは、衣の厚い天ぷら風の揚げ物と、鶏の唐揚げだった。
勝ち誇るように大洋の声が響く。
「この痴れ者が!語るに落ちるとはこのことか!天ぷらに唐揚げだと?これのどこがワサビなんだ!!」
海川五郎の表情は変わらない。それどころか、してやったりの表情だ。
「御託はいいから、まずは食ってみろ!その”うちなー天ぷら”から!」
-うちなー天ぷら?それって沖縄天ぷらのこと?あれって衣ばっかりで、タネの魚もイカもちょっと匂って、あんまり美味しくないと思ったけど。
私は沖縄旅行で食べた沖縄天ぷらのことを思い出していた。コンビニやスーパーでも売っているが、行列になる天ぷら屋もある。そのうちの一件で食べたのだが、魚は臭く、イカは硬かった。食べられないわけじゃないけど、超B級って言えばこういう料理だろうなっていう味だった。
私は熱々の沖縄天ぷらをひとつ取って、口に運ぶ。
「ふぁ!あつっ!!」
まず来るのは衣の熱さだが、さっくりと揚がった衣は香ばしい。端はカリッと音がするほど揚がっているが、中はふっくらだ。それにこれは・・
「さかな、ですよね。柔らかい。そして、大きい。それに、臭くない」
「ああ、それはマグロだな。もうひとつはイカだ。クブシミという沖縄のイカ、スミイカの仲間を使っている」
「うん!これも美味いな!」
寺田先生が声を上げる。
「ワシはもう歳だから、イカは噛みきれなくてどうかと思ったが、こんなに身厚なのにさっくりと切れるわ!それにこの身の甘いこと!ほっほっほ!」
それを境野さんも受ける。
「私はマグロが好みですな!マグロは火を通すとパサつくもんやが、これはホンマしっとりして、それに魚臭くない!うんまいわ~!これはどこの身やろ?」
寺田先生と堺野さんは絶賛している。それを見て海川五郎も満足げだ。
「俺の料理はざっくばらんだ。なにも特別なものじゃない。その証拠に、唐揚げも食べてみてくれ」
「んが!!肉汁が飛びよったわ!」
「いや、これは普通やで。普通の鶏の唐揚げや。でもなんやろ?居酒屋の唐揚げみたいな醤油とかの味が付いとらんで?」
「堺野さん、唐揚げと言えば肉にしっかりと味が染みてるもんだが、これは何というか、鶏本来の味がしますな。それに柔らかくて・・美味い!!」
寺田先生、堺野さん、ふたりの言うとおりだわ。沖縄天ぷらも鶏の唐揚げも、味は誰でも知ってるものだけど、これは違う。なんだろう?高級な鶏?マグロの希少部位?それに、もっと大事なことを私たちは忘れてる。
そう思ったとき、それまで黙って食べていた大洋が口を開いた。
「か~っはっはっは!か~~~っはっは!!」
高らかに笑う大洋の後ろに、笑い声が擬音のように被って見えた。
「この痴れ者よ!これのどこにワサビがあるのだ?大衆的な料理をここまで高めた心意気は褒めてやるが、それとワサビに、何の関係がある!!」
大洋はこれ以上ないほど目を見開き、五郎に迫る。
今度は”くわッ”という擬音が大洋の背後に被った。
-なんなの?この擬音攻撃、自分の後ろにそういうのを被せる特殊能力?あ、それくらい迫力があるっていう情景描写か。
私は自分の目がおかしくなったのかと思ったが、横を見ると川中さんも同じような顔をしている。それはまぁいいわ。肝心なのは海川五郎よ。
圧倒的な迫力で責め立てる大洋だったが、五郎は涼しい顔をして言い放った。
「マグロとイカ、それに鶏、食べてみて分からないのか?あんたらの舌はバカ舌か?」
あまりに不遜な五郎の言葉に、大洋の眼が更に大きく見開く。
「もう一度、よく味わってみろ!!マグロにイカに鶏、どれもよく知ってる味だろ!」
五郎の言葉に、一同が沖縄天ぷら、鶏の唐揚げを味わってみる。最初より少し冷めたが、だからこそ分かる味や香りがある。天ぷらでも唐揚げでも、冷めるとより硬くなり、臭みも感じてしまうものだ。だがこれは・・・。
寺田先生と堺野さんがまた顔を見合わせる。そして大洋の動きが止まり、目を瞑って味を反芻する様子を見せる。
「むぅ、マグロ特有のいやらしい臭みがない。鉄の味と臭みだ。マグロやカツオに特有の火を通したときの匂い。それがない。それにこの柔らかさ。マグロは火を通せばパサつく。なんだこれは?」
大洋が目を開け、五郎を見ながら話を続ける。
「鶏もそうか!冷めれば唐揚げは硬く、油臭くなるはずだ。だがこれは、そしてこの柔らかさは・・・五郎!!お前まさか!!」
次は、海川五郎が勝ち誇る番だった。
「そうだ、これがワサビの本当の力だ!!」
「な、なんと?ワサビの本当の、チカラじゃと?」
寺田先生がつぶやく。堺野さんはポカンと口を開けている。
五郎は自分の料理とその考えについて語り始めた。
「ジジイ、あんたが言うとおり、今の日本人はこれまで積み上げた握り寿司文化を破壊しているかもしれない。しかしだ、粘りのある酢飯?箸で食べる?堺野さん、あなたの地元では、それが普通じゃないですか?」
五郎の問い掛けに、堺野がうなずく。
「せや、大阪では、いや、関西圏は押し寿司文化や。押し寿司は一口に切り分けるけど、使うのは箸やな。それにギュウギュウ押してるから、酢飯は潰れてるな」
「そうですね、では、押し寿司は不味いのか?いやいや、押し寿司は美味い。そしてワサビは、使っていない」
堺野が大きくうなずく。
「確かにジジイの言うとおり、握り寿司の技術は料理の極みだ。だが押し寿司のことを思えば、握り寿司も新しい形に進化するときじゃないのか?その理由が、子供がワサビを食べないとか、手づかみが上品に見えないとか、おかしな理由であってもだ。そもそも握り寿司自体、発祥から今まで、進化を重ねてきた食い物だろ?最初の握りはデカすぎてひと口では無理だからって二貫付けで出すようになった。これだって進化じゃないか!」
大洋は五郎の話を、目を瞑って聞いている。
「そしてワサビだ。日本人はワサビと言えば握り寿司に噛ませる、刺身に添える位しか使わない。例外的にビフテキにはワサビソースを使うがな」
五郎は全員の顔を見回して言った。
「この沖縄天ぷらと鶏の唐揚げには、下味にワサビを使っている。それが殺菌と共に魚やイカ、鶏肉の臭みを抑え、しかも柔らかくするんだ。これがワサビの本当の力!そしてこれこそが、先人たちがワサビを使った本当の理由かもしれない。それは、日本人の心、ワサビの心だ!!」
山原大洋は目を瞑ったまま、ふぅっと大きな息を吐いた。
川中さんはなぜか目を潤ませ、力説を終えた海川五郎を見つめている。
寺田先生、堺野さんはまた顔を見合わせ、大きく何度もうなずいている。
ふたりの勝負の判定は、私と寺田先生、堺野さんの三人で話し合うことになった。当初は1票ずつどちらかに入れるはずだったが、甲乙付けがたい勝負に結局話し合いになったのだ。
そして結果は・・・
「ワサビ勝負!!いいもの見させていただいた。お二人ともありがとう!」
「この勝負、引き分けや!!」
こうして、ワサビ勝負は幕を下ろした。
・
・
私と海川五郎は、具流満荘を後にし、駐車場へ続く坂道を下っていた。勝負を終えた五郎の顔は、最初より心なしか凜々しく見えた。
「栗田さん、だったね。すまなかった。最初、印象悪かったろ?おれ、よく言われるんだが」
「いえ、大丈夫ですよ?って言うか、今もけっこう印象悪いですけど」
あの勝負の後では、私もなんとなくこの人のことが分かったようで、言葉にも遠慮が無くなっていた。
「それに、こんなふざけた勝負に付き合ってもらって、文化出版さんにも毎度ご迷惑お掛けしてるよな。今回は栗田さんにもな」
-な~るほど、デスクが言ってた「気を付けろ」っていうのはこの事か。これまでも相当迷惑を掛けられてるのね。帰ったらデスクにし~っかりとご報告しなくっちゃ。
私の疑問は全て解け、美味しいものも食べて気持ちは晴れやかだ。ある一点を除いて。
海川五郎は更に語る。
「そもそもジジイ、いや、山原大洋の記事も分かるんだ。ワサビなんて握り寿司の発祥から入ってたんだから、ワサビが入ってるのが本当で、大人たちもワサビの香りが好きだったはず。それに手でつまんで食べた方が美味いのも知っていたはずだ。それがいつの間にか、握り寿司を大人が食う、っていう時代から、握り寿司を子供に食べてもらう、って変わっちまった。つまり大人はいつしか自分の心に嘘をついて、それが代を重ねておかしな常識になってしまったんだ」
そこまで語った海川五郎の顔は、少し寂しそうに見えた。祖父である山原大洋に楯突いているようだけど、本当は違うのね。
私は、そんな五郎の気持ちを少しだけ後押ししてあげたくなった。
「まだ間に合うわよ!五郎さんの言うような理由でお寿司がそうなるんだったら、大人が子供に合わせるばかりじゃなくって、自分の嗜好に合わせたお寿司を食べればいいだけだし、箸は使いません、手で食べます、だから柔らかく口の中でほどけるお寿司をって、言えばいいだけなんでしょ?」
私が掛けた言葉に、海川五郎は頬を緩ませ、顔を上げた。
「ありがとう、栗田さん、なんか、元気が出たよ!!」
・
・
その頃、具流満荘の畳間で、山原大洋は姿勢を正して座っていた。
大洋は目を瞑り、先ほどの勝負を反芻しながら深く息を吸う。
「あいつめ、まさかワサビを揚げ物の下味に使うとは。しかし、これこそが昔の日本人が求めた、ワサビの心、なのかもしれん」
大洋はそう呟くと、目を見開いて大声で笑い出した。
「がーっはっは!がーーーーはっはっはっは!!」
具流満荘はおろか、周囲の竹林にも響き渡る笑い声。
鳥が数羽、空に羽ばたいた。
「まったく、孫に会いたいなら会いたいって、素直に言えばいいのになぁ」
障子の陰には、大洋の笑い声に耳を塞ぎながら呟く川中の姿があった。
川中の顔は、すっかり祖父の顔になった大洋を見つめ、微笑んでいた。
・
・
「ちょっと!栗田さん!俺のチャンネルでさ、今日の対決の動画作るんだけど、細かいとこ俺分かんないからさ!栗田さん手伝ってくんない?ね!栗田さんってば、ちゃんと報酬出すからさ!編集部のデスクにも俺が話し通すからさ!!」
「ねってば!栗田さん!!」
-だめ、気にしないと思ったけど、だめ、もう・・・限界!!
粟田が叫んだ。
「さいしょっから、最初っからなんですけどっ!ホントはみんなに言いたいの!!私の名字は栗田じゃなくて粟田!あ・わ・た!ですから!」
「あ、わ、た、あわたさん?くりたさんじゃないの?」
「もう!知らないっ!!」
私、粟田ゆり子は、駐車場に向かって駆け出した。
-ホントに知らないわよ!もう!!
-ちょっとだけ手伝おうかしら?もう!!
了
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