【俺史】社会人20年間を振り返る #3
【前回までの振り返り】
早々に就活を終え、残る大学生の時間の全てを注ぎ込んでいたアメフト部も引退。突然彼女も出来て充実感に満ち溢れた生活を過ごします。
あとは卒業。そして就職、、、という状況でした。
2003年。
就職というドラスティックな生活の変化が起こることをぼんやりと未来に感じながらも目標もなく、ただなんとなく毎日を過ごす日々から始まりました。
「君は、誰のおかげで卒業できると思っているのか?」
沸々と込み上がる研究への参加意識
部活が終わったので、あとは就職が迫っていました。
となると、大学を無事に卒業しなければならないことは分かっていました。
卒業するための授業の単位も、足りてないけど多分大丈夫。
あとは、卒論を書かなければなりません。
4年生の1月で、私は研究にほぼ関与していないという状況でした。
いままで、部活を理由にして研究室のイベントや研究活動にはほぼ参加出来ておらず、自分の卒業研究を一緒にすすめる共同研究仲間であるNくん、Tさんの2名に卒論を完全に任せていました。
もちろん、何も考えない、研究を理解しない、というような理不尽な態度はとっていません。実地調査、中間発表など要所要所のゼミのイベントなどは押さえていましたので、研究内容はある程度理解していました。
「よっしゃ、暇だし最後に卒業研究を一気に仕上げるか」
突然、研究に参加意欲を燃やしだした私に、NくんもTさんも戸惑いを隠せないものの、卒論発表、論文に仕上げるための手が増えたことを喜んでくれて、今までのサボりもあるにも関わらず快く受け入れてくれました。
時間を守らないTさんにイラつく日々
卒論の〆切は2月中。
なので、残り2ヶ月で卒論の研究状況を把握し、一気に仲間と卒論を書き切ろう思い、共同発表者の同級生に現時点での研究内容を貪欲に聞きにいきます。
NくんもTさんもどちらも大学院進学をきめているので、さすが研究内容をきちんと把握しており、僕に丁寧に教えてくれました。それでようやく研究の理解度も二人に追いついていきます。
そんな中、概ね卒論のための材料集め(文献や実験結果の解析など)が終わり、いよいよ役割分担して卒論を書こうという状況になりました。
今までのサボりの分を取り返すように、毎日研究室に通い、ガンガンと論文を書いていきます。
ここからは、各メンバーの個人作業になります。
離れ離れになっての作業となるので、誰かが仕上げられないと論文自体が仕上がらず卒業できなくなってしまいます。よって、我々3人は定期的に集まって論文の仕上がり具合を確認をしていくことにしました。
しかし、、、
この集まりに毎回毎回Tさんが遅刻してくるのです。
というか、絶対に決めた時間に来ない。必ず1時間以上は遅れてくる。
「はぁ?アイツなんなの?」
私も本来の姿は、人のことを言えないくらい時間にルーズなのですが、さすがに体育会の部活生活で徹底的に時間管理を叩き込まれていたので、みんなで決めた時間に遅れることへの許容度が著しく下がっていました。
また、遅れる場合は事前に連絡してくるのもあるべき姿だろうと思っていましたが、Tさんはそれもしない。
というかこちらから電話をかけても一切とらない。
「Tさん、いつもこうなんだよね・・・」
Nくんは口にします。
そう、私も今までずっと部活でいなかったのですが、実は必ず事前に研究室に行けるかいけないかは、このNくんに連絡していました。
しかも宿題があれば必ず割り振ってもらうようにお願いしていました。
しかし、Tさんは、研究室配属後からずっとそれができていなかったようなのです。
つまり、私のいない間もずっとTさんは待ち合わせの時間を一度も守ったことはなく、NさんはずっとTさんに連絡とることが難しい状況だった、というのです。
「卒論はチームでやってるのに、なんという社会性の無さか!!許せん!」
Tさんの遅刻頻度が上がます。遅れた挙げ句に「今日は行けない」というドタキャン連絡が来ることも多くなりました。
体育会系の人間には許容できるレベルを明らかに超えており、段々と私は我慢ができなくなります。
そんな中、研究室のある先輩からTさんについて別の情報を聞きます。
Tさんは、研究室の博士課程後期のMさんとお付き合いをしており、そういう関係になってから、凄く時間にルーズになった、と。
「そんなん知るか!、恋だの愛だのは外でやれや!」
私の怒りは頂点に達し、いよいよ直接Tさんに遅刻の件を問い詰めてしまいます。しかも、部活の先輩のようなアプローチで。ぐわぁぁぁ!!と問い詰めて、言い訳もなにも出来ないくらい詰めてしまいました。
そうしたら、(当然ですが)彼女に全く連絡が取ることができなくなってしまいました。
40歳を超えた今の私だったら、Tさんのことをもう少し分かってあげられたかもしれません。
例えば、、、
Mさんとの恋愛がうまく行っていなくて研究室で顔を合わせたくなかったかもしれない
もしかしたらTさんは発達障害や自律神経系の障害で、とにかく時間をきめられるとそこに対して、守れない特性があったのかもしれない。(何となく彼女はコレだったように思いますが)
こんな事を用意に想像出来ますが、当時は全く未熟で「時間を守れないやつは万死に値する」という価値観で生きていましたので、その反動で思い切り問い詰めてしまいました。
Tさんと連絡とれない。
つまり、ここで論文作成が止まってしまいます。
「ちょっと君たち来なさい」
こんな状況をどうやって把握されたのか、研究室の教授にNくんと私が呼び出されます。
何が起きているのかを問いただされたので、時間にルーズだったのでそれを問い詰めたことを正直に話しました。
すると先生はこう言いました。
「時間にルーズなのはTさんの問題だが、今卒業が差し迫っている中ではそれを問い詰めることに意味はない。むしろそれをどうやってサポートできるのかを考えなさい」
「そして、ハマショウ(私)くん、君は今まで私も、共同発表者も部活が忙しいということを十分考慮して、ゼミの活動に最低限の参加でもOKとしてきました。部活引退後の頑張りもよく分かるんだけど、でも君はTさんを責める権利はない。誰のおかげで卒業できると思っているのかよく考えなさい」
いやぁ、、、ごもっとも。
今考えても先生の指摘は、一筋の曇りもなく全く正しいことをおっしゃっているなと思います。
「そうか、おれはあくまでもフォローしてもらっていた立場だったよな」
そもそもこの大学に入る学生はみんな頭良くない、体育会系的価値観至上主義、という偏った思想に加え、わずか数週間で研究内容をCatch Upしたという謎の自信(学士レベルなので当然だったのだが)、そういうものが相まって、自分の立場を完全に見誤ってしまっていました。
そして先生の素晴らしい指摘、僅かなコメントで気付かされました。
それによって、私はTさんへの対応を変えようと決め、NくんにTさんとこれからどうやってアプローチをするかを相談します。
しかし、Nくんからは以外なコメントが。。。
「でも、君はTさんに謝る必要ないと思う、という謝らないで欲しい」
それも今考えると当然かも知れません。
所詮、遅れてきた参加者である私は、瞬間的な怒りに身を任せてそれを言葉にしてしまっただけなのですが、NくんはこのTさんの対応に研究室配属されてからずっと困らされ続けていたのでした。
先生に指摘されたことに、彼は全く納得していなかったのです。
Nくんは非常に苦労人でした。
徳島から出てきて一人暮らし。
そして学生時代にバイク事故で大怪我。
学部は工学部ではなく環境情報学科という新設学科で文系。
文系が故に学部生のときに一度就活するも就職氷河期で全滅。
大学院も内部進学は文系枠の競争が激しく不合格。
一般入試でようやく合格。
一方で、Tさんは工学部で明らかに学部の成績が悪いものの競争がなかったので内部進学をやすやすとゲット。
この時点で学士の卒業もできなくなるかもしれないくらい単位が足りなかったのに、進路だけはかなりEasyに決まってしまったのでした。
そんなTさんの状況はNくんからすれば、口惜し買ったに違いありません。
しかも、自分はこの体育会系バカのハマショウと、遅刻魔Tさんをフォローしてこの研究を卒業間際までリードしてきたのに、なぜTさんにソフトアプローチしなければならないのか。。。
そんな忸怩たる思いを抱えていたのでした。
結果的に先生に諭されTさん復帰、卒論も無事終了
仲間のNくんには謝るなと言われ、先生にはお前が言うなよ、と言われ、普通であれば私もストレスのはけ口というか、どういう態度をとればいいのか迷うはずなのですが、持ち前の鈍感力でTさんにはフェアな立場で会話し、関係性拡幅のために「圧のある言葉を使ったこと」は謝るものの、「遅刻は絶対許せない」という趣旨のことを伝えます。
Tさんもとりあえずこのままでは自分の卒業も危うくなると思ったか、一旦は私のコメントを受け入れてくれたようで、なんとか卒論も終了。
授業の単位も卒業できるギリギリを揃え、無事卒業が決まります。
そうか、体育会系社会が世界の全てではないのだな。
実力社会の体育会系。
よく誤解されがちだが、上下関係というのはあくまでもフリで、実際の協議への評価は完全実力社会の厳しい世界。
それが実社会も同じだと聞かされていた。実力社会が実社会だ、と。
しかし、社会に出る前の研究室でそうではない、と価値観が壊されました。
それは今思えばとても良かったことだったと思います。
後から船に乗った人間は、たとえ先に乗った人よりも理解力などがたかかったとしても、それ相応の謙虚な態度をとらないと、人の気分を害する。
これが学生時代の最後、研究室での学びでした。
自由な生き方への苛立ちと憧れ
今思えば、とっても恥ずかしいことですが、私が学生時代が終わったら誰しも就職しなければならないものだと思っていました。
オーストラリアにワーホリ行くから
研究室はソレなりに波乱が起こった一方で、部活引退後に出来た彼女とは2003年は良好な関係を維持していました。
しかし、彼女とは進路については価値観が全く合いませんでした。
やはり2000年代はじめの就職氷河期って厳しかったのか
就職に苦労された人には大変申し訳無いのですが、私はすでに書いたとおり、かなりやることを絞って就活を切り抜けました。
後に社会人になったときに入社年度を言うと「就活大変だったでしょう」といわれましたが、実感は全く有りませんでした。
しかし彼女もその氷河期の壁に跳ね返された一人でした。
お付き合いを始めたのは4年生の11月ころだったので、もう彼女はとっくに就活をやめていて、どうするか全く決めずに卒業の年を迎えていました。
ある日、彼女からこう切り出されます。
「私、ワーキングホリデーに行きたい。英語喋れるようになりたいから」
私はとても心配していました。
彼女が大学を卒業した後に何をするか全く決めていなかったので、留年してみるとか大学院に行ってみるとか、なにかモラトリアムというか、新卒というステータスを捨てずに社会に出る方法はないのか、という事をずっと一緒に考えてきました。
その中で、出てきた答えがワーホリ。
ワーホリ。
響きがとっても素敵でした。
ホリデーですから。
就職じゃないんだ、なんか厳しい組織や社会に揉まれるのではなくて、なんか責任ない立場で社会勉強できるんだ、英語も喋れるようになるんだろうな、いいなぁ。社会人やら無くていいのは憧れるな。
そんなイメージを持っていた一方で、
海外に行くことになるので自分から離れてしまうこと、
とりあえず行ったらなんとかなるという楽観主義への不安や苛立ち、
そういうスタンスでいる彼女に大きな不安を感じていました。
結局彼女はそのまま大学を卒業。
ワーホリは9月から、ということで、現地で生活するために必要な資金を得るためにバイトに精を出す日々。
彼女の夢のためのバイト、つまりデートとかもあまり多く行けない、という不満をかかえつつも、応援したい思いもあって一旦は卒業までの時間はお互いの自由な時間として、会いたいときに会おうというルールにして卒業を迎えようと決めました。
就職の足音が日々大きくなる恐怖感
とりあえず、お金ないけど卒業旅行に行こうか
同級生に聞くと、みな卒業旅行というものに行っているようでした。
学生時代の仲間と一緒に、アメリカ、アジア、ヨーロッパ、オセアニア、、、なんか最後の思い出づくりというものをしているようでした。
私はというと、一緒に旅行にいけるほどの仲の友人はは学部内におらず、いるとしたら部活の同期と留年して卒業年が一緒になった先輩くらいでした。
しかし、卒論を集中して書くためにバイトをする時間もなかったので、手持ちのお金は無く、海外に行けるような資金状況では有りませんでした。
(どういうわけか私はこの件を親に相談しなかった。もしかしたら行かせてくれたかもしれないのに。笑)
また、部活の仲間も全く同じ状況で卒業を勝ち取っていたので、親から卒業旅行の資金を得ていない場合は私と全く同じ状況でした。
でも、部活もなく、卒論も終わり、卒業式を待つだけ。
こんな激烈に暇な状況を打開すべく、部活の仲間に打ち明けます。
「い、伊豆にでも旅行に行って飲んだくれてみるか?」
この旅行で何が起こったのかはまた詳細を別途書こうと思いますが、とにかくこのときは飲んだくれましたし、パークゴルフでは謎のホールインワンが連発しましたし、最後にレンタカーが玉突き事故に遭うという、GoodもBadも色々混ざった道中で、もう大爆笑、いや笑いすぎて記憶がほぼないような状況でした。
「これが終わったら本当に自分の学生時代が終わっちゃうんだな・・・」
一抹の不安と寂しさを抱えながら、この卒業旅行が終わっていきます。
この日を境に、入社式までの毎日、気分が落ち込み、不安と戦うことになります。
「社会人に本当はなりたくないんだ!」
そんな心のSOSも親にするわけにもいきませんでした。
しかも、就活をしたときに「進路は就活した後に決める」と自分できめたはずでした。なので就活しなければ、次のステージさえも見えてこないわけなのですが、それも頭では理解していますが、心はやはり受け入れたくないと思っていました。
大きくて、コントロールできない、強大な力が働いているイメージの「社会」に自分が組み込まれていく感覚、まさに歯車になる感覚を強くイメージしていて、それになったらもう自分の人生はenjoyできなくなるんだ、、、自分の学生時代は後悔だらけなのに、ほんとうにこれで終わっちゃうんだ。
そんな事を思いながら、入社式を迎えるわけなのでした。。。