狐日和に九尾なぐ 第一話
■狙われるのは、わらわだけ。
逃げて、逃げて、それでもあの人間たちは追ってきた。
どんなに雨粒が傷口を流そうとしても、灼熱の鼓動と共に身体から命の欠片が溢れ出ていく。
「やめろ、人間ども! 命を弄ぶでない!」
負傷した後ろ脚を引きずりながらも、決死の思いで入り組んだ路地へ走り込むがしかし、その無邪気の巨悪が素早く後をつけてくる。
「おい、こっちに逃げた」
「まだ死なねえのかよ、しぶてぇな」
「しっかり当てろよ、殺しちまえ」
物騒な物言いとは裏腹に彼らの声音は上ずり、時折きゃっきゃっと笑い声も混じる。こちらの憤怒は声そのものとしては伝わるが、意図は伝わるはずがない。
「たわけ!」と叫んでも、奴らには「こゃん!」としか聞こえないだろう。
街に迷い込んだ狐を一頭、殺すまでなぶるだけ。
分別もわからぬ幼い人間たちにとっては、これはただの遊びなのだ。生殺与奪の権を握りしめ、思いのままに快楽へ導いているにしか過ぎない。
「うらぁ、この石は結構でけぇからなあ!」
命を抉ろうとする一撃がまた投てきされる。まともに当たれば、彼らの意のままにされてしまう。
「くそぅ!」
言うことを聞かない後ろ脚に鞭を打ってとっさに跳躍する。人里などに下りてくるべきではなかった。人間などと遭遇するべきではなかった。
自責の念をこめて空を掴もうとしたが、やはり傷を負った脚が痛んだ。
楕円状の石は錐揉みしながら確実に、逃げる隙を与えずに前脚を弾いた。
考える間もなく、右半身がアスファルトにできた水たまりへ擦り付けられるように叩きつけられる。息が止まり、身体の芯から全てが壊れていく音がした。
でも、致命傷ではない。ここで死ぬわけにはいかない。
まだ動ける。逃げなければ殺される。
人間が憎い。人間の悪が憎い。
生きたい。ただただ、生きたいだけなのに――。
「は? あのクソ狐どっか消えたのだが?」
「おめぇが石をしっかり当てねぇからだろ」
「あー、つまんねぇ」
荒い呼吸をどうにか聞かれまいとして、必死に口を噤んでいると、次第に人間たちの声はこちらは遠ざかっていった。雨足が強くなったのも幸いした。
「ふっ、因果なものよ」
ぼろぼろの体躯を翻し、それでもなお逃げ場に選んだのは灯りがさす民家だった。今の今まで散々人間たちに弄ばれてきたというのにこれなのだから、どうやら記憶の奥にしまってある情を捨てきれなかったのかも知れない。
ただ今は、この枯れ草の上で雨に打たれながら何も考えずにずっと横たわっていたい。
目を醒ましたとき、生きているのだろうか、生きていないのだろうか。
行く末を見届けてくれるのは、奇しくもこの小さな体躯を冷やし続ける雨雲だけだった。
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