PANと私
きっと界隈みんなの余韻は冷めていないことかと思いますが、私も例に漏れずそうでして。昨夜は興奮して寝付くことができませんでした。
最後のPANマンは別の記事にて書いていますので、よければそちらもご覧ください。こっちは私の個人的な話が多いし、どちらかと言うと私がまたいつか見返した時のために記録しておくものなので、すっごく暇な時にでもどうぞ。
色んなモノ(主にmixi、私まだmixiにログインできるねんw)を遡ってみると、初めてPANを見たのは2010年、今は無き心斎橋クアトロで行われたSHACHIの解散ライブだった。急遽決まったオープニングアクトで、私は会場に行くまでPANが出ることを知らなかった。見るのは初めてだったけど、曲はたくさん知っていた。この理由がなぜなのか、今はもうよく思い出せない。しかし初見だったのにセトリを記録できるという異例の事態だった。
調べてみると、ハジオさんはこの年で脱退しているから、最初で最後のハジオさんだったということだ。何かもうよく覚えていない。年末にあった脱退のライブには行っていない。なぜ行っていないんだ…
初めてマスコロに行ったのは2012年だったらしい。初めて見た時からちゃんとライブに行くようになるまで2年ほどの期間があったんだな。さっぱり覚えてないわ。
思い出に残っているのは、いつかのCOMIN’KOBE。高校の同級生と一緒に行き、さらにその弟が初めてライブに来るといった年だった。その弟がPANを見たいと言う。私は前に行くけど、前は危険だからと伝えていた。砂ぼこりが恐ろしいほど舞う野外ステージだった。
ライブが終わった後合流すると、その弟は汗まみれになり肩で息をしていた。驚いた。その背中にはくっきり足跡がついていた。発射台にされとるやないかいw前行きすぎワロタw当時まだ高校生だったその子は、「めちゃくちゃ楽しかったです」と笑顔で言ってくれた。これがとても嬉しくて、今でもよく覚えている。
2019年4月25日、ハジオさんの後長年ドラムをつとめたよこしんが脱退した。この日はよこしんの誕生日だった。この時聴いた65%がとても印象的で、すっかり最後にやった曲だと思ってたけど、今見返すと全然そうじゃなかった。アンコールが18曲だった、PANというバンドが末恐ろしかったw
私にとってはPANのドラムはよこしんが1番長かったので、とても思い入れのあるドラマーです。私の地元のバンドで今ドラムを叩いていることも誇らしい。これからもライブで会えるの楽しみにしています。
PANではほとんど遠征はしなかった。今となっては、もっとたくさん見ておけば良かったなぁなんて思うけど。唯一かもしれない遠征は、2019年に行った出雲だった。冬の日だった。その日タツヤくんがサポートから正式なメンバーになることが発表された。単純に嬉しかった。感謝しかなかった。
タツヤくんが卒業した日のライブレポがなぜかiPhoneから消えていた、セトリも。なぜなんだふざけるな…
タツヤくんは真面目で誠実で優しいドラムを叩く人だった。いつも笑っていた。「PANに入ってよかった」言ってくれた。
コロナでライブができなくなった後、一番最初に見たのはPANだった。当時はまだ声出し禁止で着席だったけど、開始1秒でライブの楽しさを思い出させてくれた。その時、川さんは「バンドの立ち位置ってどこやろな」と言った。私は「人生のすべてだよ」と、当時のレポで綴った記憶がある。今でもその思いは変わっていない。
マイルが一番好きな曲です。昔はリクエストワンマンに何票入れても聞けなかった。めったに聞けない、けど聞けた時はサイコー!っていう曲だった。コロナ禍になり、PANはマイルをよく演奏するようになった。今の世の中や私たちの思いにぴったりだったその曲は、私にとってもより大切なものになった。大好きで大好きでたまらなかった曲が、PANや他のみんなにとっても特別な曲になったことが嬉しかった。
2016年4月8日、春のPAN祭り@ジャニス。もしかすると最初に聞いたマイルかもしれない。そんなことないか…ちょうど川さんの目線の延長線上にいた私に、マイルはとても深く刺さって。あの日の照明の感じとか、ほんとによく覚えてる。
PANが活動休止を発表した後、本当にたくさんのバンドマンがPANに向けてメッセージを送った。
忘れらんねえよの柴田さんは「バンドやめる決断をした先輩の人生を肯定する」と言った。この言葉を聞いて、私もそうありたいと思った。それまでは、突然発表された活動休止という事実をなかなか受け入れられない自分がいたけど、バンドがこうしたいと決めたことを受け入れることが、私たちができることなのかなという考えになった。
特に印象的なのはもう間違いなくセックスマシーン!!だろう。活動休止を発表した後に、天井解放ツアーをずっと一緒に回ったバンドだ。
「PANがまたやりたいって思えるように!」とモーリーさんは何度も言い、ライブを自身が1番楽しんでみせた。極めつけはPANに向けて曲まで作ってしまった。
「サヨナラだなんて 言う必要なかった いつかこの先で 落ち合おうぜ」と歌っている。セクマシは、PANが絶対また戻ってくると最初から信じて疑ってなかった。いや、セクマシだけじゃない。PANの周りにいるバンドマンはみんなそうだった。
この事は、「もう一生見れないんじゃないか」なんてウジウジしていた私の背中を強く叩いてくれた。
天井解放ツアーのファイナルは「天井解放フェス」として開催された。ここでもたくさんのバンドが、PANへの思いを語っていた。
打首獄門同好会の会長は「PANがいなくなると、バンド界のパン派と米派のバランスが崩れて困る。だってこっちには米米CLUBがいるし」と、笑いながら泣いた。
THEイナズマ戦隊の丈弥さんは「PANはいつまでもやめないって勝手に思ってた。ずっとよく分からん歌詞の曲を歌うと思ってた」と言った。
活動休止まであと2本となったライブは、PANとずっとMASTER COLISEUMを企画してきたSABOTEN主催のライブだった。PANを語る上では無くてはならない存在。この2バンドの絆は、見ているこっちまで照れてしまうくらい強くて固かった。
SABOTENのキヨシさんは、「活動休止だって活動の一部」と言った。「だってまた会えるの分かってるし」と笑った。川さんは「PANとSABOTENは特別やねん」と語った。
この日のライブは、もう一生続くんじゃないかと思うくらい長くて熱くて、みんなライブが終わって欲しくないと思ってるんだなぁということがよく感じ取れた。
あの日、「バンド人生で出会った全ての人に」と言って始まった「0」のこと、私まだ忘れられない。
最後のライブは「等身大のPAN」だった。バチクソに泣いたけど、その涙も汗に変わるくらい熱い終わり方だった。「PANの最後」に最もふさわしいライブだった(いや最後ちゃうけどな)。
昨日聴けなかったあんな曲もこんな曲も、次いつ聴けるかなと期待してしまった。「またな!」と去っていく川さんは、また明日ライブがあるかのようだった。実にPANらしくて、誇らしかったです。
PANのすごい所として必ず挙げられるのが、「全曲演奏できる」所だろう。約30年になるバンド歴の中で作られた曲は100曲をゆうに上回るはずだ。PANはその全ての曲を、即座に演奏できる。その事はかつてのリクエストワンマンにて、私たちは幾度となく目にしてきた。
「PANに憧れてバンド始めましたっていうバンド見たことない。でもどのバンドもPANのライブをお手本にしている」と四星球の康雄くんは話したことがある。
その言葉通り、PANのライブはいつも芸術的だった。どこを切り取っても楽しくて、どの角度から見ても完璧だった。「安定した」という言い方をすると嫌がられるかもしれないけど、そういう言葉がしっくりくる。
好きだったバンドからメンバーが脱退したりとか、その後解散してまた復活したりだとか、そういうのはこの長いライブ人生で何回も見てきたけど。こんなに好きだったバンドが活動休止になるのは実は初めての経験で。それくらいPANは私の中で大きくて大切なバンドだった。丈弥さんが言ったように、私もPANはやめないと心のどっかで思っていた。30年以上生きていて、まだ知らない感情があるんだなと驚いたし、困惑した。
だからライブ前からライブが終わった後も、全ての感情を余すことなく文字にすることを決めた。慢心かもしれないが、出来ると思った。今までもずっとそうしてきたからだ。
本当は見てきたライブを全て振り返りたいくらいの勢いだったが、もうログが残っていなかったり忘れてしまっていたりする。もったいないけど。でもその全ては私の生きる糧になってくれているはず。
PANのメンバーとはほとんど話したことないし、きっと私の顔も名前も知らないと思うけど。私は確かにPANがめちゃくちゃ好きだった。
仮に1ヶ月で帰ってきたとしても、「おいおいおい」なんて言ったりしないぞ。数年帰って来なくても、しっかり待つぞ。でも早くして欲しいぞw
次またライブを見る時は「あぁそうだ、これがPANだ」と感じると思う。
13年も経っていた。PANの28年に渡るバンド人生のわずか半分くらいしか共にしていなかったけど、出会ってくれてありがとう。
上手くまとまらなかった!しかし大好きなことだけ伝われ!!!
2023.8.19 hal