五回生の I さん
『笑っていいとも』とほかほか弁当
誰もいるはずのない昼間の弓道場。
コソコソ練習しようとすると、なぜかいつも Iさんがいる。男子部室の隣の部屋で、『笑っていいとも』を見ながら唐揚げカレー弁当を食べているのだ。電気を止められたことがあると話していたから、道場でテレビを見ていたのだろうか。
「おまえー、学校は」
「へへへへ」
曖昧に返事をする。
そこへ、Y堂さんなどもやってきて、あーだこーだ言いながら練習し始める。
そうこうしているうちに、師範と奥様が乗った車が到着。
走って行って、弓矢をお持ちしなければならない。先輩方がお出迎えをしている隙に、私は玄米茶をいれて師範にお出しする。
「大学はいいとや」
「あ、はいっ」
奥様などは、
「(私たちのことは気にしなくて)いいからね、学校行きなさい」
と、全く笑っていない目をしながら仰るけれども、ひとたび師範が矢を放てば我々が取りに行くしかない。それはもう、この世の習わしなのであった。
師範の竹製の矢は、1本いくらするのかは知らないが、学生が買えるような代物ではない。恐る恐る丁寧に、しかし素早く真っ直ぐに、的と安土に刺さったそれを抜く。相当な鍛錬のいる技である。これが試験期間中であった場合には、「なんでこんなことをしているんだ」「帰って勉強したい」といった邪念とも戦う試練が加わってくる。
こうして、前日毎日鍛錬を積んでいるはずの我々なのだか、なぜ Iさんは弓道部五回生で文学部4年生なのだろうか。大学6年、院が2年目という先輩もいるので、もしかしたらそれほど不思議なことではないのかもしれない。
ある時、私は「早気」の病にかかった。胸を開くようにして弓を引き分け、矢が口元に降りてくる前に離したくなってしまう病である。どうしても引いている途中で狙いが定まってくると離したくなってしまう。一度かかると大変に治すことが難しい病なので、Iさんに見てもらうことになった。
「絶対離すなよ」
なんと、Iさんは、私が弓の弦を引く両の腕の間に、自分の手を差し出してきたのである。
絶対に離すわけがない。
私も Iさんも思っていた。
その3秒後、私の右手から放たれた弦が見事に Iさんの手をはたいた。
うそだろ
私も Iさんも驚いてしまって、その後どうしたのか記憶がない。
でも、初めての大会前の練習では、あまりにもガチガチに緊張していた私の頬をペチンとしたのは、Iさんだった。
「大会に向けて気持ちを高めていかなんけど、思い詰めるのは違うやろ」
そんな言葉をかけて、後輩愛のあるペチンをくれたのだった。
一回生の初めての大会。「初陣の歌」という習わしもあった。ずいぶんと悩んだすえ、私は『アタックNo.1』の替え歌を歌うことにした。
大会の朝。
福岡市民体育館前の広い駐車場。
開場時間が近づいて、各大学が集まりストレッチなどを始めていた。その緊張感の高まる場で、もっとも目立つ場所に立ち自己紹介をする。
「こんにちは!○○高校出身、
弓道部一回生はるとなりです!!」
「お粗末ながら1曲歌わせて頂きます!!!」
とにかく声を張る。
声だけは張らなければ気持ちで負ける。
いったい何と闘っているのだろう。
そんなことは知らぬ。
「アタックーアタックーナンバーワーン、○大(大学名)〜○大(大学名)〜 ナンバーワーン」
闘いは終わった。
たぶんややウケくらいだっただろう。
この「初陣の歌」になんの意味があるのか、そんなことは知らぬ。でも、後に、他大学の先輩からいじられたり、K大学のKくんからは尊敬の意を表されるなどした。一回生が名前を覚えてもらえる場があるという点では、意味があるのかもしれない。試合で活躍すれば済む話ではあるが、なかなか厳しいため、ここで一発噛ましておきたい気持ちはあった。だいぶ前のめりに生き急いでいた。
他大学の先輩たちの中には、佇まいからして勝利のオーラを纏った方がおられた。どっしりとした安定感、貫禄のある立ち姿。
Iさんは、
「もっと食え」「もっと太れ」
と私に言った。
今だったら、こんなに立派にぷにょぷにょになれましたよ、と言えるのだが。
手、痛かったですよね。
本当に本当にすみませんでした。
そんな Iさんは、肥後もっこすに負けず劣らずの佐賀県民。
完
「佐賀んもんの通った後には草木も生えん」や、「ペンペン草も生えん」という佐賀県民の県民性を表す言葉がある。
鍋島藩お膝元の民は質素な倹約家で、道端のペンペン草さえも無駄にせず食べてしまうことから、このような言い方をするそうだ。
私が出会ったことのある佐賀県民の方々は、方言がとても親しみやすく、普段は素朴なようで豪快な一面も持っている印象だった。
それから、師範と奥様は、おふたりとも範士の段位を持っておられる有名な弓道家肥後もっこすであった。
※肥後もっこすとは、熊本県民の無骨な気質を表す言葉で、正義感の強い頑固者といった意味があります。