ことばに濾しとられたのちに残るもの
一年前の自分は、他人。
どうやら、「いま」にしか生きられない人間のようなのだ。
幸か不幸かわからないけど。
昔、自分の書いた日記は二度と読み返さない、読み返すのが恐ろしいと思っていた。
その時その時の最大瞬間深度の闇がそこに詰まっていそうで、蓋をしたら二度と開けられない、開けたら大変なことになるような気がしていたから。
だけど、媒体を紙からwebに変えて、それなりに綺麗にまとめることもおぼえて、それとなく見返すようになると、まるで他人事のように読めてしまう自分がいた。
それは、それなりに整頓されてしまったことばのむこうにいる、くちゃっとした自分。を、見ずに済んでいたからなのかもしれない。
去年の今頃、一昨年の今頃のわたしは、大仰なほどに生きる理由を背負っていたし、だから強くあらねばならなかった。
強く生きる者の苦悩、という美しい物語だけを濾しとって、そこに醜く残った澱から目を背け続けたことが、いつしかじわじわと自分を追い込んできたのだと、今は思う。
定義できないことをまるごと飲み込めるほど、わたしは自分をゆるしてはいなかった。
こうして書いていてふと思う。一秒前の自分ですら、他人と感じているのかもしれない。
文字におこしながら、俯瞰している自分がいる。
リズムと語感、定義、切り分け、ことばが事象に与える意味は大きく、よくもわるくも「そのまま」ではない何かの意味づけがされていく。
言語化は、生の感情、生の思考にラベルを貼っていく作業に他ならない。
こうやって、わたしはわたしを、日々を、人生を、ことばで選り分ける。
よいものと、わるいもの、どちらでもないもの。どちらでもないという名の、決して悪くはないもの。あるいは、怒り、義憤、悲しみ、憎しみさえ、その名をつけることによって像が結ばれ、異形のものから名前のある綺麗なものに昇華していく。(そう、ことばには負の感情だって綺麗にまとめてしまう力がある)
なんのために。自分の人生、自分自身をひと続きの脈絡に置くため。納得感を得るため。自分という物語の意味をそこに得るためだ。
人間は言葉なくして自分を定義できるほど強靭にできていない。
その卑しさもあざとさも知っている。
そして、卑しさもあざとさも、人のみが持つ「美」に収斂していく。
だから、ありとあらゆる悲劇も喜劇も「芸術」と呼ばれるのだろう。
わたしたちは誰もが創造している。自分という物語を、自分という目から見た世界の色とかたちを、この世に生まれて今ここにいることの意味を。
わたしよ、それで満足か。
見たかった真実はそこにあるか。
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