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今日の日めくり歎異抄の言葉29

今日の日めくり歎異抄の言葉

この一言に
出遇えて
本当に
よかった

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聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもって存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せ候ひしか。
(『歎異抄』後序)

Among Master Shinran’s words were:
I know nothing at all of good or evil. For if I could know thoroughly, as Amida Tathagata knows, that an act was good, then I would know good. If I could know thoroughly, as the Tathagata knows, that an act was evil, then I would know evil. But with a foolish being full of blind passions, in this fleeting world --- this burning house --- all matters without exception are empty and false, totally without truth and sincerity. The nembutsu alone is true and real.
( A Record in Lament of Divergences Postscript )

親鸞聖人は、「何が善であり何が悪であるのか、そのどちらもわたしはまったく知らない。なぜなら、如来がそのおこころで善とお思いになるほどに善を知り尽くしたのであれば、善を知ったといえるであろうし、また如来が悪とお思いになるほどに悪を知り尽くしたのであれば、悪を知ったといえるからである。しかしながら、わたしどもはあらゆる煩悩をそなえた凡夫であり、この世は燃えさかる家のようにたちまちに移り変る世界であって、すべてはむなしくいつわりで、真実といえるものは何一つない。その中にあって、ただ念仏だけが真実なのである」と仰せになりました。
(聖典読解シリーズ『歎異抄』内藤知康師 総結260頁)

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火宅・・・火事になっている家のこと。

「火宅」というのは、『法華経』の「火宅三車の譬喩」の「火宅」です。以下「火宅三車の譬喩」を簡単に紹介します。
火事になっている家(これが火宅です)の奥座敷で子供たちが何も知らずに遊んでいます。「火事だ」と呼びかけると、驚き慌てふためいて、却って危険な方に向かって走るかもしれません。そこで「面白いから表へ出てきてごらん、羊の引いた車、鹿の引いた車、牛の引いた車が通っているよ」と声をかけます。目を輝かせて外に出てきた子供たちが見たのは、大きな白い牛が引いた車がいるだけだったというたとえ話です。羊の引いた車、鹿の引いた車、牛の引いた車とは、声聞乗・縁覚乗・菩薩乗の三乗をたとえたものであり、大きな白い牛が引いた車は菩薩乗もしくは仏乗の一乗です。つまり、釈尊は迷いを出る道として三乗を説いたが実は一乗しかないということをたとえた譬喩だといわれています。そして、この譬喩に出てくる火宅とはただ火事になっている家を意味しているだけではなく、そこに居る者が火事になっていることに気がついていないということも意味しているといわれます。私たちはいつ終わるかもしれない命を生きているのに、まるで今の命が今日も、明日も、明後日も、ずっと限りなく続いてゆくかのように思って生きています。そのような迷いの世界のあり方が火宅とたとえられているのです。
ところで、「この世の中のことはいい加減なことばかりで、あてになることは何もない」と世をすねて毎日を過ごしている人たちが時にいます。虚無主義の人たちといわれたりもします。しかし、この人たちは、「この世の中のことはいい加減なことばかりで、あてになることは何もない」と、そのように見ている自分自身のものの見方は、いい加減なものだと思っていないように思えます。一方、ここで親鸞聖人のおっしゃる「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ですが、その前の「煩悩具足の凡夫」とは親鸞聖人ご自身のことと考えられますので、「そらごとたはごと、まことあることなき」なのはまず自分自身であると見ておられたと考えられます。「すべてはいい加減だ」と見ている自分の見方は確かなものだと思っているのではなく、まず自分が最も不確かであると見ておられたのが親鸞聖人なのです。そしてそれは阿弥陀仏の本願のはたらきそのものである念仏に照らし出された私自身のあり方であるということが、「ただ念仏のみぞまことにておはします」と示されているのです。
(聖典読解シリーズ『歎異抄』内藤知康師 総結263~264頁)

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【声聞】(しょうもん)・・梵語シュラーヴァカの意訳。声を聞く者の意。仏の直接の教えを聞いて学ぶ者をいう。もとは釈尊の直弟子を指す語。大乗仏教では、二乗、三乗の一で、煩悩を断ちきり自己のさとり(自利)のみを目的する者とされる・・

【縁覚】(えんがく)・・梵語プラティエーカ・ブッダの意訳。独覚とも意訳する。因縁の理を直観してさとる者の意。師なくして飛花落葉を観じて独自にさとりを開き、他に説法しようとしない者・・

【菩薩】(ぼさつ)・・梵語ボーディーサットヴァの音訳である菩提薩埵の略。覚有情・道衆生・道心衆生などと意訳する。初期には「さとりに定まった有情」の意で、成仏以前の釈尊を指す言葉であったが、大乗仏教では出家・在家、男女を問わず「さとりをもとめて修行する者」の意として用いられた。そして、自らさとりを求める(上求菩提)とともに一切衆生をも利益しようとする(下化衆生)利他的意義が強調されるようになり、衆生を教化しつつある普賢・観音・文殊などの大菩薩の存在も説かれるようになる。・・『大経』に説かれる法蔵菩薩についても、その発願・修行の結果、阿弥陀仏となったと説かれているが、久遠実成の阿弥陀仏が、衆生救済のために因位の菩薩のすがたを示したものとする見方もある。・・

【乗】(じょう)・・梵語ヤーナの意訳。衍と音訳する。教法・教えの意。教えは衆生を迷いの世界からさとりの世界へ運びわたすものであるから乗物に喩えられている。

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