今日の日めくり歎異抄の言葉19
今日の日めくり歎異抄の言葉
「亡き人のため」
という思いは
「私がいかに生きるか」
という問いに
転換される
親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず。
(『歎異抄』第五条)
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親鸞聖人のご伝記によれば、ご両親との縁まことに薄い幼年期を過ごされたことが伝えられています。聖人の瞼の奥には、つねにご両親のお姿が去来し、思慕の情は人にもまして強かったことでありましょう。にもかかわらず、「父や母への孝養(きょうよう)の念仏」をどうして否定なさるのでしょうか。聖人にとって父や母は、なににもまして大切な存在であるばずです。
わたしたちも一生のうちで、親との別れ、子どもとの別れ、夫婦、兄弟、友人との別れに遭遇し、世のはかなさを嘆き、悲傷に涙することも数を知りません。それなのに聖人は、「亡き人のために念仏もうしたことは一度もない」とおっしゃるのです。
その理由として、聖人はまず、
一切の有情はみなもつて世々生々(せせしょうじょう)の父母・兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏に成りてたすけ候ふべきなり。
とお示しくださるのです。
「一切の有情」の「有情」とは、心のはたらき・感情を有するものということですから、「生きとし生けるもの」とか「すべての衆生」
ということでしょう。
「世々生々」とは、生まれ変わり、死に変わりを永遠にくりかえすことであります。このことを仏教では「六道輪廻」ともいい、迷える衆生は地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天上道の六つの迷いの世界を、生まれ変わり、死に変わりしてやまないと教えているのです。
聖人は、世界中の「一切の衆生」が遠い過去の世では父であり、母であり、兄でもあり、姉でもあり、妹・弟として縁を結んだものであるとの考え方に立つならば、特別に今生の父や母のためだけに追善の供養をすることこそ問題であって、念仏を、そんな狭い限られた対象(人びと)だけのための手段にすることは、我執を充たすためにすぎず、もってもほかである、と誡められるのです。
ここに、仏教の生命観である、生きとし生けるものが、それぞれに尊いいのちをいただいて、平等に生かし生かされているあいだがらであるとする存在の本質が示されているともいえましょう。
『歎異抄を読む』緒方正倫師
(二)一切の有情は父母・兄弟 74〜76頁
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念仏は私の行ではない
さて第五条には、念仏を追善供養の手段にしようとするのを否定する第二の理由として、「わがちからにてはげむ善にても候はばこそ、念仏を回向して父母をもたすけ候はめ」といわれています。たとえば自力をもって布施を行じ、すぐれた徳をわが身に積みかさねたうえで、その果報を自分が受けずに他者にゆずり与えてゆくというのならば、まだしも話はわかりますが、念仏は、称えて功徳を積みかさねてゆくというような自力の行ではありません。仏になるのにふさわしい善を行ずることもできず、功徳を積むこともできない愚悪の凡夫を救おうとして、如来が、御みずからの徳のすべてを名号にこめて、恵み与えたもうた如来回向の行なのです。それゆえ私どもは、ただありがく頂戴するばかりです。わがもの顔に他の人に回向するべきものではありません。第一、私が回向するまでもなく、如来はすでに万人にわけへだてなく回向したもうているのです。私どもが人々に念仏をすすめるということは、如来が私にもあなたにも、念仏を与えて救いつつあることを人々に取り次いでいるほかにないのです。
こうして、如来が回向したもうた本願の念仏を、はからいもなく信受して、浄土に生まれさせていただき、すみやかにさとりを開くならば、六道にあって、胎生(たいしょう・母胎から生まれる)、卵生(らんしょう・卵から生まれる)、湿生(しっしょう・湿気の中からわき出る)、化生(けしょう・忽然として変現して生まれでる)といった四生のどんな生まれ方をしているものでも、神通力をもって救うてゆくことができるから、追善供養を行う必要もないといわれるのです。
聖典セミナー『歎異抄』梯 實圓師
追善供養を超えて 184〜185頁