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今日の日めくり歎異抄の言葉17

今日の日めくり歎異抄の言葉

悪人こそ
救いのめあて
私こそ
救いのめあて

善人なほもつて往生をとぐ。いはんや悪人をや。
(『歎異抄』第三条)

☆☆☆

悪人の救い
善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をやー、
と書きだされた第三条は、悪人こそまさしく救いのめあてであるということを明らかにしたのである。世間一般の人は、善人は仏に近いものであり、悪人は仏に遠いものだと考えているかも知れない。なるほど絶対善を完成した仏に対したとき、少しでも善いことをしたものは、仏に近いと考えるのも無理のないことである。
しかしそうした考えこそ、相対的な道徳律にとらわれた思いであって、親がわが子を見たときに、善いから可愛い、悪いから憎いと思うであろうか。親の見る眼は善悪平等であって、いずれも可愛いという心に変りのあろう道理がない。しかしとりわけ悪い子供に対しては気がかりになるのであって、何とか早く更生の道をはかってやらねばならないと日夜心を砕くであろう。
子の罪を親こそ憎め憎めども
捨てぬは親のなさけなりけり
こうしたことが真の親心である。仏もそれと同じことで、仏の眼には善人悪人のわけへだてがなく、平等に救わねばおかぬという慈悲がはたらいているのである。
しかしながら、どちらかといえば善人は、とかく善に高あがりの思いをもっている。悪にふていくされてひがんだものよりは、善に高あがりしたした独善主義、排他主義のものは、それにも増して始末におえないものである。そうしたものの中からは、絶対に融和の世界は生まれない。そしてみずから小さい善のからに閉じこもって、仏の慈悲をこばんでいる。かかる高あがりのものはかえって救われにくいといわねばならない。
しかるに、みずからおのがあさましさに気がついて、悪人であると知られたものに、その悪人こそ仏の願いのめあてであると知らしめて、慈悲の光りの中にいだきしめ、光りの道を歩ましめるということが、救いの心でありはたらきである。
一体悪人というのは、法律や道徳のうえでは、悪いものはさばかれ、つまはじきにされるけれども、宗教の世界では、悪人とは欠陥を有するもの、弱きもの、傷ついたもの、として憐れまれるのである。これを親鸞聖人は、仏の「真実明」に対して「無明」すなわち闇にさまよえるものとし、悲しき存在とみられている。
さればわれわれは、誰か悲しき存在でないものがあろうか。まことに人間はたとい法律にふれるようなことをしなくても、誤ちだらけ、欠陥だらけの弱いものである。そのすがたに多少の相違はあるけれども、仏に対すればみんな悪人だといわなければならない。うわべは意地をはって善人顔をしておっても、ひとたび内面をかえりみれば、空虚な淋しさをかくすことはできないであろう。
こうした人間の憐れさを救いとって永遠の光りに充実した喜びを与えようとするものが、阿弥陀仏の本願である。さればわれわれはすみやかに善にほこる小さな我執のはからいをやめ、悪にひがむ自暴自棄のなげきをすてて、ひとしく本願の智慧、慈悲にいだかれ安らかにとけ合う世界を見開くべきである。
『歎異抄のこころ』山本仏骨師
〔附〕歎異抄ノート 185〜187頁