今日の日めくり歎異抄の言葉30
今日の日めくり歎異抄の言葉
怒られた
ことより
悲しませた
ことが
心に残る
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かなしきかなや、さいはいに念仏しながら、直に報土に生れずして、辺地に宿をとらんこと。一室の行者のなかに、信心異なることなからんために、なくなく筆を染めてこれをしるす。なづけて「歎異抄」といふべし。
(『歎異抄』後序)
How sad it would be to abide in the borderland instead of being born directly into the fulfilled land, even though one has the fortune of saying the nembutsu. That there be no differing of shinjin among the fellow practicers, I take my brush with tears in my eyes and record this. Let the title be Tannisho―A Record in Lament of Divergences [from True Shinjin].
( A Record in Lament of Divergences Postscript )
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鮮妙和上が、第十八願の「唯除五逆誹謗正法」というこころを歌によんで、
子の罪を親こそ憎め憎めども
捨てぬは親のなさけなりけり
といわれていますが、自分の子供が罪をおかした場合に、その罪をほんとうに憎むものは親であると同時に、それかといってその罪の子を捨てることのできないのも親であります。だから限りなく歎かずにおられない。どこまでも罪の子を抱きしめて共に歎いていくのが親でしょう。他人ならば人の子の罪を批判し笑っていても、そう大して心配はしません。心配をしないということは、捨ててしまえばそれでいいからです。しかし親はわが子の罪をどこまでも憎むけれども、それかといって子供を捨てるわけにはいかないのです。あくまでわが胸に抱きしめて歎き悲しんでいくところに、ほんとうの親の姿があるのでしょう。私は「歎異抄」の表題に打ち破るとか、突きはなすとイワナイデ、歎くーといってあるところに、そうした親心が見られると同時に、そこに「歎異抄」全体に流れている持ち味がうかがわれ、またおのずから浄土真宗の精神が匂うていると思うのであります。
(『歎異抄のこころ』山本仏骨師 「仏法者の歎き」18~19頁)
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「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり。五逆のつみひとをきらひ誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。
(『尊号真像銘文』註釈版聖典644頁)
「唯除五逆誹謗正法」というのは「唯除」というのは「ただ除く」という言葉であり、五逆の罪を犯す人を嫌い、仏法を謗る罪の重いことを知らせようとしているのである。この二つの罪の重いことを示して、すべての世界のあらゆるものがみなもれることなく往生できるということを知らせようとしているのである。
(『尊号真像銘文』現代語版 6頁)
Excluded are those who commit the five grave offenses and those who slander the right dharma: Excluded means that those who commit the five grave offenses are rejected and reveals how grave the evil of slandering the dharma is. By showing the gravity of these two kinds of wrongdoing, these words make us realize that all the sentient beings throughout the ten quarters, without a single exception, will be born in the Pure Land.
( Notes on the Inscriptions on Sacred Scrolls )
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