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今日の日めくり歎異抄の言葉18

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今日の日めくり歎異抄の言葉

できるだけの
ことを
させて
いただこう

慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。
(『歎異抄』第四条)

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慈悲に聖道・浄土のかはりめあり。聖道の慈悲といふは、ものをあはれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きはめてありがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便(ふびん)とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと云々。

『歎異抄』第四条
註釈版聖典834頁

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CONCERNING compassion, there is a difference between the Path of Sages and the Pure Land Path.
Compassion in the Path of Sages is to pity, commiserate with, and care for beings. It is extremely difficult, however, to accomplish the saving of others just as one wishes.
Compassion in the Pure Land Path should be understood as first attaining Buddhahood quickly through saying the nembutsu and, with the mind of great love and great compassion, freely benefiting sentient beings as one wishes.
However much love and pity we may feel in our present lives, it is hard to save others as we wish: hence, such compassion remains unfulfilled. Only the saying of the nembutsu, then, is the mind of great compassion that is thoroughgoing.
Thus were his words.

A Record in Lament of Divergences 4

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慈悲ということについて、聖道門で勧めているような慈悲と、浄土門で語る慈悲とではちがいがあります。慈悲ということは、苦しみ悩む人をあわれにおもい、いとおしみ、守り育てることですが、聖道の慈悲というのは、自分の力で、人々を苦しみから救いあげて、安らかなしあわせを与えようとすることをいいます。しかし凡夫がどんなにつとめても、思い通りに人々を助けとげるのは至難のことです。
浄土門で慈悲を語る場合は、自分がまず本願を信じ念仏して、すみやかに仏のさとりを得させていただいて、その上で大慈大悲心をおこして、思いのままに一切の衆生を救い、真実の利益を与えることをいうべきです。
この世に凡夫として生きてあるかぎり、どんなに気の毒だ、かわいそうだと思っても、思い通りに助けることはできないから、わが力によって、この世で人々を救おうと願う慈悲は中途半端なものでしかありません。そういうわけですから、本願を信じて念仏を申すことだけが、ほんとうに徹底した大慈悲心だといえましょう、と仰せられました。

聖典セミナー『歎異抄』梯 實圓師
第四条 浄土の慈悲 現代語訳 157〜158頁

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愛にひそむ自我性
仏教では、「愛」ということばは、貪愛・渇愛・愛欲というように、煩悩の名称として使われることが多いようです。ときには慈愛とか、愛語というように、慈悲の意味で用いられることもありますが、多くの場合は、憎しみの反対概念として、愛欲の意味で用いられています。たとえば『法句経』一六「愛好品」に、
愛より愁いは生じ、愛より怖れは生ずる。愛を超えし人には愁いはなし。かくていずこにか怖れあらん。
というふうに、自分自身にとらわれ、自分に都合のいい人や事物を自分の所有物としたいと貪り求めてゆく心のはたらきを愛といい、愁いと怖れの原因とみなされてきたのです。それを渇愛というのは、このような貪りの心は、私どもの生存の根源に根ざしたもので、のどのかわいたものが、無性に水をほしがるように、理性によるコントロールも、意志による抑制もきかないほど強烈なものであることをあらわしています。
怒り憎む瞋恚が、自分に都合の悪い状況(逆境)に反発して起こす心であるのに対して、貪愛の心は、自分にとって都合のいい状況(順境)に対して起こる心であるといわれています。そして順逆の縁によって、愛憎の心が起こる根源には、自分自身の存在を絶対的なものとみなし、自分の都合を中心としてすべてをみてゆく自己中心的な想念(おもい)があります。それを愚痴(おろかさ)とか無明(無知)といいます。無明とは、ある特定の対象についての知識が欠けているということではなくて、自分自身の存在の真相についての無知ということであり、自分というものが固定的な実体として実在しているとみなす自己自身への根源的な誤解のことです。ともあれ、このような愚痴(無明)を中心として起こる貪欲と瞋恚を三毒の煩悩といい、自他を苦しめ悩ますいわば心の猛毒であるとされてきました。
人の世には愛がなければならないといいましたが(前節)、その愛は渇愛であり、貪愛であってはならないのです。親と子、夫と妻、兄弟、友人をつなぐきずなは「愛」ですが、人を愛するという名のもとに、実は人を自分の幸福のための道具としてとりこもうとする自己愛であることがあまりにも多いようです。「私はあなたを愛します」というとき、多くの場合「あなたは、私にとって都合のいい存在です。私の幸福のためにあなたが必要なのです」といっているのではないでしょうか。もしそうならば、相手を愛しているのではなくて、自分の幸福を実現するための手段として、道具としてあなたが必要であるといっていることになります。
このようにお互いが自分の幸福のために利用しあうという間柄で、たまたま利害関係が一致している状態を「愛」というのならば、それは我欲そのものですから、仏陀はそれを愛欲とよばれたのです。このような危険な愛に生きているのが人間であるとすれば、人間関係というものは、たえず破滅の危機に直面しているといえましょう。さきにあげた『法句経』に「愛より愁いは生じ、愛より怖れは生ずる」といわれたのはそのゆえです。
(同じく 160〜162頁)

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