原稿用紙とキーボード
かつての文豪たちが遺した直筆原稿を見ると、いずれの方も細かく推敲した跡が原稿用紙にいっぱいある。文章へのこだわりが伺えようというものだ。推敲の軌跡は日本文学の研究者であれば研究の対象になるに違いない。他方、悪筆の作家さんの場合編集者さんは手渡された指示をキチンと反映させるのに神経をすり減らしたことだろうな。
向田邦子さんは自らのエッセイで悪筆であることを告白していた。印刷所へ直接原稿を届けた際に、向田さんを編集者と勘違いした職人さんが「この人の文字は本当に汚くて、苦労する」とさんざん愚痴られて、その後本人だと気がついて気まずいことになった、というエピソードが面白い。
いまも原稿用紙に手書きで執筆をして入稿している作家さんはどれくらい残っているのだろう?
小学校で書かされた作文ではあの400字詰め原稿用紙が配られていた。その名残りなのだろう、かつてのワープロ専用機には「モチベーションがあがります!」と謳って原稿用紙の設定があったし、これは現在のワープロソフトにも受け継がれているようだ。
私が入社した昭和末期、テレビニュースの原稿はまだ手書きだった。悪筆だったり、手直しが入ったり・・・、昼ニュースの原稿はほとんどいつもギリギリに仕上がってアナウンサーは下読みできずに本番に臨むのだが、かなり苦労していたのではないか。
ワープロ方式がなにより便利なのは、デスクとして記者や部下の原稿を手直しする場面においてだ。多くの作業は副詞や形容詞など文章の要素の入れ替えなので、いちいち手書きしていてはトンデモなく時間がかかることになる。
そんな私も、いまやキーボードのほとんどのキーでブラインドタッチなので、ほぼ思考スピードのまま入力ができている。そういえば政治家の記者会見でも記者たちがバチバチとキーボードを叩く音が聞こえてくる。やはりどなたも手書きよりもずっと楽チンなのだろう。
社会人生活30年以上、このブラインドタッチの習得が一番の財産になっているかもしれん。
(22/5/9)