狭隘誑惑:「裏笑い」留学を決めた理由を改めて考える.

「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」
浅田彰氏が「構造と力」の冒頭で記した言葉である.このフレーズこそ、私が留学することを決めた言葉と言っても過言ではない.(実際、日本から持参した数少ない書籍の中に「構造と力」を選出している.)理解力・読解力に乏しい自分にとって正直、本書は1ページ読み進めるにも相当な労力を要する.だが、あのペダンティックな文章から何か自分自身の人生にプラスになるものを得ようと眼を動かす行為そのものにどこか教養ある者として生きていきたいという自分自身の願望が込められているように思う.

では、「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」とはどういうことを指すのであろうか.本書を見てみる.尚、自分自身が専門的に学んだ分野ではないので深い見識が無いながらも解釈していることをここで断っておく.

要は、自らが「濁れる世」の只中をうろつき、危険に身をさらしつつ、しかも批判的な姿勢を崩さぬことである。対象と深くかかわり全面的に没入すると同時に、対象を容赦なく突き放し切って捨てること。同化と異化のこの鋭い緊張こそ、真に知と呼ぶに値する優れてクリティカルな体験の境位にあることは、いまさら言うまでもない。

浅田彰「構造と力」(1983) ”序に代えて”より

世間には「濁れる世」を形成することが沢山ある.そこに対して、ある種の「清らかさ」を謳っているのが社会制度ではないだろうか.就中、日本の若者においては受験、就活といった自らが生まれるよりも前に制定されたルールに基づいて、「公平に」自分の「なりたいもの」になることを許しているのである.しかし、こうしたものが当然「濁れる世」を形成することの要因になっていることは誰の目にも明らかであり、「公平性」はある程度の水準においてしか達成されていないと言える.この状況に対してNOを突きつけること、「正しさ」が存在しないことを主張すること、こうした行為は自分の状況を客観的に把握し世の中にメスを入れることができるかもしれない.だが、私はそこにある種の「幼稚さ」を感じ取るのだ.構造としておかしい、行為や名誉そのものに対して正当性がないという意見には概ね賛同する.他方、具体的な内実を知らないにも関わらず、浅薄な情報と未熟としか言いようのない自分の体験を照合して公に訴えることは果たして最適解だと言えるのだろうか.その行いには自分が世の中を把握できているつもりになっているという「青さ」を伴うのではないか.側から見ればそれはただの野次と同程度のものでしかない.ならば一旦、「濁れる世」に入ってしまった方が生きやすいのではないか.その上で、味方のフリをして永遠に批評家であり続ける.この実践こそ「シラケつつノリ、ノリつつシラケる」ということを体現できるのではないか.

自分にとって留学とはまさに「濁れる世」にある「清らか」なるものの対象であった.留学をすれば、価値観が変わり、語学力も身につき、人として成長することができる.そう言った考え方は100人中104人が聞いたことのある文言だろう.だが、それは本当なのだろうか.価値観が変わるとはどういうことなのだろうか.意思疎通の手段として英語ないしはそのほかの言語を使用する中で自分の言語運用スキルは向上するのだろうか.留学において得られる効用を完全には信じてはいないからこそ、その真実性を検証をしてみたかったのである.世の中が正しい/有用だと言ってやまないその行為を実際にしてみる.それを通してその良し悪しを判断したい.これこそが自分が留学を決めた最大の理由である.

思い返せば高校の時、生徒会に入って優等生のフリをしながら、学級新聞の編集長も兼務して学校批判の記事も度々掲載していた.世の中における正しいことをしているように見せて、本当はそれを一番疑っているこの精神性は変わっていないのかもしれない.こんな懐疑的な感情を抱えながら留学するのは得策でないことは百も承知だ.それでも、この10ヶ月の海外生活を経て自分がどんな人間になるのか、想像もできないこの感覚を当の本人が一番楽しみにしている.

最後にこの留学を自分は留学しているというより、自分を留学させてみているという点で「裏笑い留学」と名付けたい.「裏笑い」の人間がどれだけ「表」を楽しむことができるのか.先は長い.


いいなと思ったら応援しよう!