狭隘誑惑:「英語が話せる」とはどういうことか
現地に到着してもう2カ月が経つ.そろそろ自分自身の生活圏が固まり始めてきたので、普段利用するスーパーについて尋ねられても「買い物は近くにVILLAがありますが、よくLIDULに行きます.LIDULの方が安いので」とちゃんと答えることができる.ハリソンも文句は言えまい.
また土地土地の”お国事情”なるものも漠然とではあるが見えてきた.自分が住む大学指定の寮にはあらゆる国からやって来た留学生が生活している.そのため各国の全体的な傾向が日常生活の間隙から自ずと露呈するのである.自分はウズベキスタン人、ウクライナ人、自分の3人で1つの部屋を使用しているのだが、機微に着目するとその相違が枚挙に遑がない程に現れる.各国の状況が明確に理解できている訳ではないので具体的な明言は一旦避けるが兎に角こちらの文化寛容力が試されるのである.
このように「留学生のサラダボウル」的な空間で生活しているので共有できる唯一の言語である英語での意思疎通を避けられない.基本的に私は興味のあることを除いて殆どの物事を強制されないとやれない性分なので、英語を使おうとする→言いたいことを英語に置き換える→実際に発話する、という他言語を用いる際に発生する厄介な思考のプロセスは成る可く避けたいと思ってしまう.一方で、英語を使ってコミュニケーションを取る能力は得たい上に諸外国の異文化に対する理解も深めたい.こんな怠惰で社交性が極端に低い自分にとってこの状況はかなり好都合であった.今後も強制力には人生を駆動させるモーメントとして期待していきたい.
…という環境の中で日々英語を使っていてふと感じたことがある.それは自分の発話がエクリチュール的になっているのではないか、ということである.エクリチュールとは書き言葉の意味で主にフランス現代思想で用いられて来た概念である.これに対する概念としてパロールというものがある.こちらは話し言葉の意であり、ソシュールは言語をこのパロールと社会的規約の体系としての言語の側面であるラングを用いて議論していたりする.(単に現代思想好きが高じて度々noteに登場するが、自分の専門でも何でもないので解釈の間違いにはご容赦いただきたい)先ほど他言語を用いる際の思考プロセスとして、英語を使おうとする→言いたいことを英語に置き換える→実際に発話するというものを提示した.この第2段階である「言いたいことを英語に置き換える」という過程のなかでこの問題は発生しているように感じる.英語に置き換える、という行為の中で行われているのは英作文をする時に行う思考を文字起こし無しで行なっていることと同じである.即ち、私が英語を話す時、その言葉には英語の文法体系に沿って記された文字列が意識されているということである.これは母国語を話すときにはあまり感じ取ることのない感覚なのではないか.日本語において文字列について考えることがあるとすれば、それは自身の発話後に起こるものである.事後的に自身の発信した内容を相手の発話中に考え、それを自分の中で文字に起こすことは起こり得る.加えて、何かについて尋ねる際に何かの単語/名詞を強く意識して、それを自身の中で文字化することもあるだろう.だが、何かしらについて相手に伝えたいときに、全て文字に起こして発話するというのは母国語を使用した言語活動においては滅多に行われない行為である.つまり、自分自身が話す英語はパロールに見えてかなりエクリチュールの側面が強いものなのだろう.文字化されたものを自動音声読み上げ機の如く発声することで表面上は英語を話せている、という状況を作り出すことができるが、実態は異なるというのが現実である.この原因はきっとテキスト化されたもので殆どの英語を理解してきた教育的な問題が背景として考えられるがここでは言及しない.
それでは、「英語が話せる」というのはどういうことなのだろうか.ここまでの文章を読んでいればきっと分かるとは思うが、パロール的に英語を使用できることなのではないか.こちらも手段として英語を使用しているので、エクリチュール的感覚を完全に排すことは難しいだろう.それでも、出来る限りパロール的な使用をして意思疎通を図りたいというのが個人的な願いであり、ある種の達成目標だろう.会話が違うプロセス(パロール的/エクリチュール的)で行われるのは齟齬が生まれるし、自分の低い言語運用能力を晒している感覚が発生するのは嫌である.
いかに文章化されたものを思考プロセスから遠ざけることができるか.これが本質的な今回の留学の肝かもしれない.