狭隘誑惑:事始〜世の中の留学体験記はもう十分じゃないか〜
2024年9月より大学の交換留学で中欧のスロバキアで生活している.帰国予定は来年の6月で10ヶ月という短い時間ではあるが現在は異国に滞在しているという恰好である.
タイトルとして採用した狭隘誑惑は造語であり、「画数が多い」かつ「日常生活で殆ど耳にしない」という理由で”狭隘”と”誑惑”という2つの熟語を抽出した.辞書的な意味は以下のとおりだ.
こちらも調べてやっと正確な意味を把握したのだが、意図せずして”度量がないながらも人を騙し惑わそうとする”というニュアンスを析出させてしまった.しかもそのニュアンスが僅かながらではあるが自分の執筆したいものとの方向性とどこか合致したのだ.その昔、明治文語文を出題する大学を第1志望にしていた際に予備校のテキストで覚えたあの単語がここに来て偶発的な効用を齎したことに驚嘆しながらもとりあえずは"狭隘誑惑”をテーマに更新しようと思う.
私がこのnoteを始めた理由は主に2つある.
1つ目は僕が何かしらの表現活動をしていないと「生きて」いけないからである.ここでは当然、肉体的な活動を停止することではなく、精神的な問題である.中高時代は学級新聞を毎週発行して、只管に文章を書いていた. 加えて、ラジオの深夜放送にメールを送る所謂”ハガキ職人”も同時に行っていて、1日に100通近いメールを送ったこともある(採用は振るわず月に1回程度だった).大学進学後は、お笑いサークルに入ってネタを書き続け、月に1回の定期ライブでは必ずネタを披露するようにしていた.このようにかれこれ10年近く飽きることなく何かしらの表現活動をし続けてそれが当たり前になってしまっていた.そんな人生だったこともあり、異国に着いて間も無く1ヶ月というところで何も生み出せていない自分に対してかなり嫌気がさしていた.自分の持ちうるSNSでの発信はどこか即物的で共感性を誘うような内容に終始してしまう.十分な時間が投下され、かつ自分の意見を交えながら有益性のある内容を発信したい.このような熟考の末、noteを書くに至った訳である.ここ1,2年はネタ作りが中心だったので執筆+ネタあわせという2つの工程を踏む必要があり、他者の介在に加えて自分の創作物が笑いという形で表れてしまうという客観性と公共性のある表現活動であった.一方でテキストのみにとどまる活動は100%の自分自身を出せる反面、偏ったものの見方を集積させてしまうリスクもある.そのため表現の稚拙さや論理矛盾も度々起きることがあり、私はXでそれを腐るほど見てきているので気をつけなければならない点であることを重々理解している.畢竟、自分の表現欲が抑えられなくなったということである.
2つ目は先ほどの話に関連するのだが、もう世の中にある留学体験記/日記はお腹いっぱいじゃないか、ということである.所謂「留学体験記」の多くは(1)事実及び自身の経験の羅列(2)(1)を踏まえた他者に対する意見の提示 の2つに分けることができると思う.断っておくが、この2つを否定しているわけではない.ただ、もう十分だということだ.仮に自分自身がソーシャルメディアにおいてアテンションを集めることができる状態にある(卑近な例はインフルエンサーだろう)時に、「留学体験記」を何らかの形で発信することは有用と言えるだろう.なぜならその行為自体に「自分自身が発信している」というある種の権威性が存在するので、受け取り手が勝手に独自性を見出してくれるからだ.MACCHOのリリックにもある「どの口が何をいうかが肝心」というやつで、社会的な影響力によって担保された中で吐き出された言葉にはある程度の価値を見込むことができるだろう.他方で、私のように社会的な影響力を保持しない人間がする「留学体験記」は世の中に溢れすぎている.「〜した」、「〜だった」、「〜したほうがいい」という出自もわからない人間の言葉に独自性はなくむしろありきたりなものだ.当然その一つに加担することが悪いことであるとは思わない.だが、端的に言ってそれは面白くないのである.それならば寧ろ、自分が留学で経験したことをベースにして何かしらの形で社会に敷衍できそうな話題について述べたほうがこのnoteの閲覧層を留学に関して興味関心のある人に限定すること無く多くの人に自分の意見を発信することが出来るはずである.また、ここまでの文体および文章量を見て判然なように、全くもって「バズ」との文脈からもかけ離れている.分かりやすさを放棄して閲覧者に迎合しない姿勢こそ物書きの理想的な姿だと思っている.
ある意味でこれは留学体験記のフリをした個人的なエッセイなのかもしれない.だが、あくまでも留学で起きたことを基盤として話を進めるつもりなので、私は堂々と留学体験記を自称したいと思う.
どこまで続くか分からないが物書きおよび表現欲が枯渇するまでは継続していきたいと思う.