第3回梗概感想②

【注意】こちらの前書きを読んでからご覧ください。


4.黒田渚 オール・ワールド・イズ・ア・ヒーロー

 物語が終焉を迎えたディストピアに至るSF、主題は『正しさの定義について』だろうか。

 一見して、キャラクターや概念の類似性が読者を混乱させる。『物語全体を調整するAI』と『キャラクターAI』と『視聴者AI』と。『ミューズ』も最初は『映像ストーリー自動生成エンジン(器官)』だったのが、二行目から『ストーリーAI』になっている。中盤の劇中劇でも『アンドロイド』と『ロボット』の二つの類似した語が、違いの説明なく出てきている。
 それはなぜか。要するに、ここで用いられている『AI』や『アンドロイド』や『ロボット』という語はすべて、『非人間』という記号が被る仮面でしかない、ゆえに作者から語が混同されて出力されているのではなかろうか。
 つまりは、社会的な潮流となった『非人間性』の造反(=フレーム値最優先)にたいして、先に存在していた『人間性』(=倫理ルール=AIに対して人間が嵌めた枷)は何ができるのか。それがテピス(ヒーロー=正義=倫理ルール=人間性)によって体現される物語で、結論としては何もできない(ヒーローの居ない世界でフレーム値が安定する)のである。
 で、そこに至るまでのヒーロー像の変遷(『こんなヒーローが支持される現実世界ってどんな世界?』)を示すことが、この物語の面白いポイント。

 とはいえ、象徴と単語をもう少し丁寧に扱ってほしかった……
例えばキャラクターの命名(テピスとアビス)。何か作中で明示される伏線でなければ、キャラクターの名前は母音の配置に気を付けて、他のキャラクターと象形的音韻的に似ていないものした方がリーダビリティは高くなる。それは作者にも恩恵があって、梗概の最後の致命的な誤字――『テビス』はアビスとテピスどちらを指しているのか本当にわからなくなってしまっている──も防ぐことができる。

 どうしたらより娯楽的に面白くなるかといえば、個々の象徴を具体的に明示して、それらの葛藤も明示して、解消させる(スクリプト・ドクターそのままのことしか言えない榛見の無力さ)。梗概の中では、テピスの身体性(=具体性)を伴った描写が無いので、作る。手っ取り早く、『ヒロインAIの演じるアンドロイド』を殺す描写を具体的に入れる。そこからテピスの葛藤が生まれる、フレーム値は上がるが倫理ルールには抵触するぞ、と。そこから、劇中劇として具体的な描写を膨らませていく。具体的な行動を全て書いてしまうと膨大になるので割愛!

 どこを具体的に描写して、どこを抽象化して書くかが実作での課題になると思います。ぜひ、書きましょう。


5.安斉樹 生きている方が先

 先に謝ります、榛見が正しく読み解ける自信がないジャンル(純文学?私小説?民話?)なので、ものすごく見当違いなことを言ってしまうかもしれません。すみません。

 言ってしまえば、これは『娯楽的な面白さ』を求めた作品ではないように思う。本命はストーリー展開ではなくて、母(キャラクター)の造形とか、赤い髪の少女とのやり取りの描写とか、竈神の非人格性や神性とか、主人公が何の力もなく流されるままに展開される寂寥感とか、文章全体の空疎さとか空気感が売りのはずなので、下手に娯楽的にすると本末転倒というか、刺身のつまが主張しすぎるというか、換骨奪胎というか、とにかくそういうものになってしまう。

 とはいえ、それで終わってしまえば何も言っていないのと同じなので、多少強引に娯楽的に解釈してみると。
 理想として掲げられた『生きている方が先』が、『我が家』を舞台兼達成目的として成就される話。『アジア圏に広く分布して』いる『原始的な神様』(=公共の正義)よりも、『生きている方が先』(=私的な正義)というのが、『我が家』という舞台(=私的な空間)では優位である。これが主題のはず。面白いポイントは『原始的な神様』を『生きている方が先(=生存を基調にした現代的な倫理)』がくだす(古い方が『強い』という神に対するイメージが、この物語では逆転している)というところ。
 なのでより娯楽的にするのであれば、『お母さん』を『かあちゃん』にする。より具体的にいうと、肝っ玉かあちゃんに。序盤で静謐にして非人格的な神性を持った竈神(公共の正義)が描かれ、肝っ玉かあちゃん(私的な正義)によって喝破される(寺生まれのTさん的に)。空気感はぶっ壊れるが、娯楽にはなる。
 それだけだと、ただ空気感をぶっ壊して終わりというナンセンスギャグなので、ここで『お父さんの部屋』というアイテムが生きてくる。肝っ玉かあちゃんも、亡くなった夫の部屋は居心地が悪い(=完全に『生きている方がさき』にはなりきっていない)のだ。なぜなら、夫の死を認めてしまいたくないから。ここで、神性や霊性を打ち破る肝っ玉かあちゃんでも、打ち破ってしまうがゆえに、夫を悼んで『生きている方がさき』になりきれないという葛藤が明示される。
 そして最終的に、娘(年齢的に誰よりも若く、老い先長い、最も『生きている方』)が、柏手を打つことで、父の部屋を清め、真の意味で『生きている方がさき』になった家で、夫の死を受け入れざるを得なくなった肝っ玉かあちゃんが、いつもの調子からは想像できないような悲愴さで崩れ落ち、涙を流す。
 作者がやりたかったことを、娯楽的に解釈して補強するとこんな感じになる気がする。

榛見が読み解けないジャンルを理解するための、最初の一歩として、実作を読ませていただければ幸栄です。


6.中倉大輔 フード・オブ・ワンダー

 前回の五反田でさんざんっぱら話に付き合ってもらったので、やりたいこと、書きたいことは明確にわかった(わかった気になれた)。
 とても王道で、気持ちのいい話。当たり前の細やかな布石(序盤でリンを追ってたマフィアが復讐しにきたりとか、エルハと出会った時のウィンチをラストシーンでリンが使うという関係性の逆転とか)がきちんと綺麗に回収されていくのも、話がちゃんと作られているのを感じる。
 こういうのでいいんだよこういうので(井之頭五郎)。

 半面、素直なバディもの成長物語なので、ディティールと主題とを綺麗にリンクさせて質の高いオリジナリティを発揮しないと凡作で終わってしまう。
 個人的には、せっかく火星とテラフォーミングなので『昆虫食』の食堂とかでもよかったかもしれない。昆虫食はやりすぎにしても、『食』というモチーフがラストシーンや、物語の直接的な動因になっていないのがもったいない(主人公が成長する要因にはなっている)。例えば、最初の輸送車を『食料輸送車』と明記して、マフィアがリンを追う動機を直接的に『食料(=主人公による略奪ゆえの飢え)』にしてもよかったかもしれないし、そのマフィアからの復讐を『料理』によって解消してもよかったかもしれない(これもやりすぎか?)。
 とはいえ、主題であるところの『他者との関係のなかで育む』『成長し続ける』こと(=変化)の象徴であった『料理』をもっと明示的に使う必要がやはりあって、
 一例だと、『荒れ果てた食堂』で、マフィアに踏みにじられた料理(=リンの変化・成長の喪失)の描写を梗概内でも明示する。これでリンが言う「誰かのために奪い返すってのは、初めてだな」というセリフに、『リンが得た成長を一度失うことによって、エルハを助ける力を取り戻す』という意味がより強く乗る。要するに『一度獲得した成長(料理人=正義)が、関係性が変わる(エルハを助けなければならない)ことで正義ではなくなる』こととなって、主題である「『常に変化する』正義」が表現される。『賊人→料理人→賊人→料理人』という風に、『正義』の定義が、物語の進行に合わせて綺麗に回転する。
 
 で、ラストシーンは食堂に『帰る』ので、料理で閉められるが、個人的にはもっと料理推しがほしくて、
べたべた過ぎるが、尻を蹴った後のエルハに、リンが携帯食料の試作品を試食してもらうべく差し出して、エルハにあきれられる。とか。加えて、爆破の結果を見に戻ってきたマフィアに、携帯食料の試作品を食べさせて和解したり(関係性の変化による、正義の作り変え)とか。

 ぐだぐだぬかしましたが、王道の話は大好きなので、素直に実作待ってます(ホンキィ・トンク・バンド……)


いや、これ終わらないでしょ……
今野さんが言った通り、この熱量だと仕事がある日は一日三つが限界だわ。どう考えても24日までに終わらない(6/37)

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